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第35話

「あーー、旦那様。憲兵さんが……」


 口ごもる、こう助に、馬上の梶井屋店主は小さく笑う。


「なに、怖がることはない。ああ、親方も、そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」


 何事だと言いたげに、確かに憲兵が、こちらを見ている。


「取りあえず、私は馬から降りて……、なに、こちらには、ちゃんと通行証もありますからね、やましいことなどない」


 むやみに憲兵を恐れることはないと店主は言いたいようだった。


 もちろん、こう助、ヤハチ親方共々、憲兵の存在などなんとも思わなっていないが、確かに庶民は、何につけても目ざとく取り締まる憲兵を、避けるきらいがある。だから、店主は、二人を安心させようとしているのだろう。


 そんな店主の思いとは裏腹に、こう助、ヤハチ親方は、しっかり見つめ合っていた。


 この場をどうするか。そう、通行証と同行票がある。無事に居留地へ立ち入ることはできるのだが……。ここまで来たのは、商談の為ではない。美代を連れ戻す為なのだ。


 正当法で、美代を引き連れ門を通過し、脱出するとして……。果たして、門番の憲兵は誤魔化せられるか?通行する者をしっかり確認するのだ。出て行く者も確認するはず。いや、少なくとも、美代の存在に、気がつくだろう。


 ひともめ起きるのは目に見えている。そもそも、その場ですぐに連れ帰る事が出来るのか不明な部分もある。ステファンが、邪魔立てしたら……。美代は、留まる事になる可能性が出てくる。


 折角ことなく居留地へ、ステファンの屋敷へ侵入できそうなのだ。ここでのしくじりは許されない。


 美代をどう救い出すかは、ステファンの屋敷に到着して判断すべきかもしれない。状況によっては、後日出直す、または、潜伏し続け、連れ出す機会を待つ事も考えに入れておくべきだろう。


 いずれにしても、居留地には、通行証が必要……。


 ヤハチ親方がこう助に目配せした。すぐに、こう助も頷く。


「お、おおっと、こら、暴れるなっ!」


 馬が、急に鼻先を大きく揺らした。


「だ、旦那様!早く馬から降りた方が良いいですよー!」


 こう助が、馬上の店主に手を差し出し慌てふためく。


「そ、そうだな。こりゃあ、危ない!急にどうしたんだ?!」


 梶井屋の店主は、こう助の手を借りて、馬から降りようとしている。


「お、おい、こら!だ、旦那!あっしが手綱を握っておりやす!しかし、もちませんやっ!くそっ!馬!」


 ヤハチ親方は、暴れる馬をいさめようと、手綱をしっかり握っているが、馬の動きにふりまわされている。その度、足を踏ん張り、手綱を引いて、暴れる馬を押さえ込もうと見えるが、分からないように、ピシリピシリと、ヤハチ親方、もとい、八代は馬の鼻先を手綱でぶっていた。


 馬をなだめる振りをして、暴れさせていたのだ。


 何も知らない店主は、なかば、こう助に崩れ混むよう馬から必死に降りる。


 瞬間、こう助の指先が素早く動いた。


「わあ!旦那様!大丈夫ですか!」


 こう助の騒ぎ声に、門番をしている憲兵が気がついた。


「何をしているっ!」


 ピイーと警笛を鳴らし、こちらを伺っているが、何故か悲鳴を上げた。


「黒馬だっ!!」


 憲兵が、腰を抜かしている。


「おやおや、憲兵さん、どうしましたね?」


 ヤハチ親方が、落ち着いた馬の鼻筋を撫でながら言った。


 「い、いや、な、何でもない!」


 慌てる憲兵へ、


「何でもないなら、そりゃよーございました」


 親方が、ニヤリと薄笑みを浮かべ言う。


 四郎を見て、喋ったと逃げ出したあの憲兵だった。


 黒馬を見て、隠密八代とのやり取りを思い出したのか。もっとも、再び、八代と対等しているとは、夢にも思っていないようで、本分を思い出したとばかりに、しゃきっと姿勢を正すと、一行に何事なのか訊ねて来る。


「はい、どうもお騒がせ致しました。私どもは、居留地を商いの為に訪れた者です。ここに、通行証と同行票が……」


 商人らしく、憲兵へ丁重に答える梶井屋の店主は、自分の懐を探っている。


「……確か、懐に通行証と同行票を入れておいたのだが……」


 必要なものがないと、店主は焦り始める。


「あーーあーー、旦那様!お忘れですかぁ?」


 そこへ、こう助が懐から紙切れを取り出し、見せつけた。


「だから!旦那様が仰ったじゃないですか!ご自分が持っていると落としてしまうからって、私に渡したでしょう?お忘れですかぁ?」


 こう助がもっているのは、紛れもなく通行証と同行票。店主は、あっと叫ぶが、不思議そうにしている。


「こう助や。そんなこと、私は言ったかね?そもそも、大切なものだから、懐へ入れたのだが……」


「そうですか?大切なものだから?」


 こう助は、キッと顔を引き締め、通行証と同行票をゆっくり左右に降った。


 すかさず、ヤハチ親方が低い声を発する。


「……さあ……右……左……右……揺れているぞ」


「……ああ、そうだ、右……左……に……揺れて……だから……私は……大事なものをこう助に……預け……た。そうだ。そうだった!」


 ヤハチ親方とこう助は、顔を見合わせ、ほくそ笑む。


 これから先の事は読めないと判断した煌と八代は、居留地に自由に出入り出来るように、梶井屋の店主から通行証と同行票を奪ったのだ。


 八代が、馬を暴れさせ、煌が梶井屋に手を貸す振りをして、その懐から、通行証と同行票を抜き取った。そして、こう助に預けたことと思い込ませた。


 これがあれば、もしも、すぐに美代を連れ戻せなくても、堂々と居留地へ出入り出来る。


 実際に使うかどうかは、まだわからないが、手元にあって困るものでもなく、むしろ役に立つ可能性が高い代物だろう。


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