店の様子を知らされたのか、煌の声が届いたのか、奥から店主らしき、仕立ての良い着物を纏った、白髪で痩せた男が現れた。
「こ、これは、門代様!先日の御屋敷の修繕費用ならば、こちらから伺いましたものを!」
おろおろしつつ、店主らしき男は、自分の孫ほど年が離れているであろう煌へ、ご機嫌伺いの作り笑いを向けている。
「ああ、店主。支払いがあったな。すまんが、屋敷に取りに来てくれ」
「もちろんでございます。あっ、いえ、こちらこそ、催促をしたような物言いで、申し訳ございません!」
煌の高飛車な言葉にも、店の主人はペコペコ頭を下げた。
「梶井屋。まだ、修繕しなければならない場所がある。そうだろう?八代?あれは、確か……ステファン・ミレーネ伯爵邸……だったか?」
煌は、ニヤリと笑って八代へ目配せした。
分からないのは、店の主で、何のことかと、ぼっとしている。
「店主、思い出さないのか?ん?急がなければ約束に遅れるぞ?時計を見てみるがいい」
八代が神妙に言っているが、店主は、当然、そのような予定などに心当たりはない。
「はあ……」
とりあえず、面倒なことになってもと、八代の言うことを聞いて、店主は店の奥にある柱時計を見た。
「今、何時だ?ん?あれは、どうしたことだ?時計の振り子がおかしいぞ?」
「振り子がですか?……朝、開店前に、ゼンマイのネジを巻いたのですが……」
八代に言われた店主は、なにがおかしいのだろうと、揺れる振り子を凝視した。
「右に左に揺れている……」
「はい、振り子ですから……」
「右、左……右……左……」
八代は、ゆっくり店主へ語りかけた。その度、店主は、振り子の動きを目で追いかける。
「右……右……右に、揺れている……」
八代が店主に囁いた。
「はい、右に……右に……」
たちまち、とろんとした目付きになった店主は、振り子の動きを凝縮しながら、
「……ステファン・ミレーネ伯爵邸へ……」
一人、口走る。
「店主よ。行かねばならんな。だが、居留地だぞ?それに、ああ、助手が二人必要だ……」
八代が追い討ちをかけるように店主へ囁く。
「ええ、居留地に。梶井屋は、指定店だから、居留地の通行証がある。ああ、職人と、荷物持ちの
ぼぉとした面持ちで、店主は続けた。
「八代、かかったな?」
ふっと煌が笑い、八代は、コクりと頷いて返答する。
「いかん!時間が!急がなければ!おーーい!出かけるよ!居留地の通行証を持って来てくれ!同行票も必要だ!」
あれがいる、これがいると、店主が奉公人達へ指示をだし始め、店は一気に慌ただしくなった。
煌と八代は顔を見合わせ、瞬時に店から外へ出る。
そして──。
「旦那様ーー!大工の親方がこられましたぁ!!」
屋号の入った前掛けをした
「ヤハチの親方がお越しですよ!」
奉公人達は、ポカンとしていた。
ヤハチなどという大工に覚えがないからだ。そして、やけに堂々としている
皆、首を捻った。
「ああ!ヤハチ親方!すまないね!おお、こう助や!お前は、荷物持ちで一緒においで」
店主は、当たり前のように、自分の伴、こう助と、大工棟梁ヤハチと、名前を同行票に記して店の印を押している。
その姿に、あまり出入りしていない、はたまた、新しく付き合い始めた大工かもと、奉公人の皆は、納得し、こう助とやらをちらりと見た。
奉公人達は、勝手に納得すると主達の出発を見送ろうと並んだ。
「じゃあ、行ってくる。居留地だから、帰りは遅くなるかもしれない。番頭さん、留守を頼んだよ」
店主は、口早に言うと、大工の棟梁ヤハチ親方と荷物持ちの
「旦那様。馬で行かれるのですか?」
こう助が、店を出たとたんに言った。
店先に、黒馬がいる。ひひいいんと、嘶き、前足で地面を掻いている。
「おや、丁度いいね。しかし、三人だ。さて……」
ムムっと、店主は考え込んだ。
「ああ、旦那!あっしが手綱をひきましょう!旦那は、馬に乗ってくだせぇ」
「おや、親方。それじゃあ、どうも収まりがつかないよ」
自分が乗るのはと、店主は、親方ヤハチの手前、遠慮している。
「俺は、大工ですぜぇ?足腰は鍛えてぇまさぁ!それに、ただの下働きで馬に乗るのは贅沢だ。どうぞ、旦那がお乗りくだせぇ!」
「あーー!おいらも歩きます!旦那様がお乗りください!」
こう助も、やけに強引に馬に乗れと薦めた。
これは、大人しくしたがった方が、もめないだろうし、時間も迫っていると、店主は思う。
「おい、小僧。ちょっくら、手綱を握っておけ!」
言って、親方ヤハチが、地面に這いつくばった。
「旦那、あっしの背中を使ってくだせぇ。踏み台にすれば、馬に乗りやすくなりやす」
「い、いや!親方!そんな!」
その時、馬が、ひひいいんと嘶いた。
「うん、ここで、言い合っていても仕方ない。馬が暴れてもいけない。それじゃあ、親方、背中を借りるよ。すまないねえ」
店主は、親方ヤハチを踏みつけ、馬にまたがった。
「ははは!ヤハチ親方も馬みてぇだ!」
「こらこら、こう助、親方をからかっちゃあいけない!ご厚意に甘えさせてもらっているのだから!」
「すみません。旦那様」
こう助は、頭をかきかき、あやまった。
「じゃあ、ヤハチ親方行きましょうかね」
「へい、旦那」
ヤハチは、身頃についた土ぼこりを払いながら、威勢良く返事した。と、同時に、こう助と目配せする。
こうして、完全に煌と八代の手中に落ちてしまった梶井屋の