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第33話

 店の様子を知らされたのか、煌の声が届いたのか、奥から店主らしき、仕立ての良い着物を纏った、白髪で痩せた男が現れた。


「こ、これは、門代様!先日の御屋敷の修繕費用ならば、こちらから伺いましたものを!」


 おろおろしつつ、店主らしき男は、自分の孫ほど年が離れているであろう煌へ、ご機嫌伺いの作り笑いを向けている。


「ああ、店主。支払いがあったな。すまんが、屋敷に取りに来てくれ」


「もちろんでございます。あっ、いえ、こちらこそ、催促をしたような物言いで、申し訳ございません!」


 煌の高飛車な言葉にも、店の主人はペコペコ頭を下げた。


「梶井屋。まだ、修繕しなければならない場所がある。そうだろう?八代?あれは、確か……ステファン・ミレーネ伯爵邸……だったか?」


 煌は、ニヤリと笑って八代へ目配せした。


 分からないのは、店の主で、何のことかと、ぼっとしている。


「店主、思い出さないのか?ん?急がなければ約束に遅れるぞ?時計を見てみるがいい」


 八代が神妙に言っているが、店主は、当然、そのような予定などに心当たりはない。


「はあ……」


 とりあえず、面倒なことになってもと、八代の言うことを聞いて、店主は店の奥にある柱時計を見た。


「今、何時だ?ん?あれは、どうしたことだ?時計の振り子がおかしいぞ?」


「振り子がですか?……朝、開店前に、ゼンマイのネジを巻いたのですが……」


 八代に言われた店主は、なにがおかしいのだろうと、揺れる振り子を凝視した。


「右に左に揺れている……」


「はい、振り子ですから……」


「右、左……右……左……」


 八代は、ゆっくり店主へ語りかけた。その度、店主は、振り子の動きを目で追いかける。


「右……右……右に、揺れている……」


 八代が店主に囁いた。


「はい、右に……右に……」


 たちまち、とろんとした目付きになった店主は、振り子の動きを凝縮しながら、


「……ステファン・ミレーネ伯爵邸へ……」


 一人、口走る。


「店主よ。行かねばならんな。だが、居留地だぞ?それに、ああ、助手が二人必要だ……」


 八代が追い討ちをかけるように店主へ囁く。


「ええ、居留地に。梶井屋は、指定店だから、居留地の通行証がある。ああ、職人と、荷物持ちの丁稚でっち、二人分の通行証が……。同行票を使うか……」


 ぼぉとした面持ちで、店主は続けた。


「八代、かかったな?」


 ふっと煌が笑い、八代は、コクりと頷いて返答する。


「いかん!時間が!急がなければ!おーーい!出かけるよ!居留地の通行証を持って来てくれ!同行票も必要だ!」


 あれがいる、これがいると、店主が奉公人達へ指示をだし始め、店は一気に慌ただしくなった。


 煌と八代は顔を見合わせ、瞬時に店から外へ出る。


 そして──。


「旦那様ーー!大工の親方がこられましたぁ!!」


 屋号の入った前掛けをした丁稚でっちが、印半纏しるしはんてん姿の職人を連れて店に入って来た。


「ヤハチの親方がお越しですよ!」


 丁稚でっちが、声を張り上げる。


 奉公人達は、ポカンとしていた。


 ヤハチなどという大工に覚えがないからだ。そして、やけに堂々としている丁稚でっちにも、見覚えがない。


 皆、首を捻った。


「ああ!ヤハチ親方!すまないね!おお、こう助や!お前は、荷物持ちで一緒においで」


 店主は、当たり前のように、自分の伴、こう助と、大工棟梁ヤハチと、名前を同行票に記して店の印を押している。


 その姿に、あまり出入りしていない、はたまた、新しく付き合い始めた大工かもと、奉公人の皆は、納得し、こう助とやらをちらりと見た。


 丁稚でっちとなると、店には大人数いる。忘れているだけで、こう助とやらは、店にいるのかもしれない。そもそも、主が、さらさらと、居留地へ立ち入る為に使う同行票に名前を記しているのだから、きっと、いるのだろう。


 奉公人達は、勝手に納得すると主達の出発を見送ろうと並んだ。


「じゃあ、行ってくる。居留地だから、帰りは遅くなるかもしれない。番頭さん、留守を頼んだよ」


 店主は、口早に言うと、大工の棟梁ヤハチ親方と荷物持ちの丁稚でっちこう助を連れて店を出て行った。


「旦那様。馬で行かれるのですか?」


 こう助が、店を出たとたんに言った。


 店先に、黒馬がいる。ひひいいんと、嘶き、前足で地面を掻いている。


「おや、丁度いいね。しかし、三人だ。さて……」


 ムムっと、店主は考え込んだ。


「ああ、旦那!あっしが手綱をひきましょう!旦那は、馬に乗ってくだせぇ」


「おや、親方。それじゃあ、どうも収まりがつかないよ」


 自分が乗るのはと、店主は、親方ヤハチの手前、遠慮している。


「俺は、大工ですぜぇ?足腰は鍛えてぇまさぁ!それに、ただの下働きで馬に乗るのは贅沢だ。どうぞ、旦那がお乗りくだせぇ!」


「あーー!おいらも歩きます!旦那様がお乗りください!」


 こう助も、やけに強引に馬に乗れと薦めた。


 これは、大人しくしたがった方が、もめないだろうし、時間も迫っていると、店主は思う。


「おい、小僧。ちょっくら、手綱を握っておけ!」


 言って、親方ヤハチが、地面に這いつくばった。


「旦那、あっしの背中を使ってくだせぇ。踏み台にすれば、馬に乗りやすくなりやす」


「い、いや!親方!そんな!」


 その時、馬が、ひひいいんと嘶いた。


「うん、ここで、言い合っていても仕方ない。馬が暴れてもいけない。それじゃあ、親方、背中を借りるよ。すまないねえ」


 店主は、親方ヤハチを踏みつけ、馬にまたがった。


「ははは!ヤハチ親方も馬みてぇだ!」


 丁稚でっちのこう助が大笑いする。


「こらこら、こう助、親方をからかっちゃあいけない!ご厚意に甘えさせてもらっているのだから!」


「すみません。旦那様」


 こう助は、頭をかきかき、あやまった。


「じゃあ、ヤハチ親方行きましょうかね」


「へい、旦那」


 ヤハチは、身頃についた土ぼこりを払いながら、威勢良く返事した。と、同時に、こう助と目配せする。


 こうして、完全に煌と八代の手中に落ちてしまった梶井屋のあるじを乗せた黒馬は、ゆっくり進み出した。

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