「ああ、左様で。ならば、早退届を願いでなければなりませんなぁ。どのみち、あちらの校舎へ行っていただいて……そう、控え室の隣に事務方の部屋がございますので、そちらへ……」
用務員は、八代に説明している間も、自分の義務とばかりに、手に持つ小型の振り鐘を、カランカランと鳴らし続けていた。
直に授業が終わり、休憩や移動の為に学生達が教室から出てくることだろう。
長話は得策ではない。人混みに紛れることは由としても、姿を見られるのは、好ましくないと八代は思い、この辺りで終わらせるかと、大きく踏み出した。
「うぐっ!!」
用務員が崩れこむ。
腹に八代の蹴りを受けていた。
「まあ、要らぬ反撃を受けぬということから、年寄りで良かったが、すまんな、どうも大きく踏み出し過ぎたようだ。私の長い足が貴様に当たったみたいだなぁ」
背筋が凍りつきそうな冷えた笑みを浮かべた八代は、地べたに崩れこむ用務員を即座に回廊そばの植木の後ろへ連れ込んだ。
カランカランと金の音が響き渡る。
植木の後ろから出てきた老人は、こともなく、自分の役目を果たしていた。
曲がった腰に手を当てて、痛むから明日は雨かなどなど、ぶつぶつ呟きながら、何事もなかったようにゆっくり回廊を進んで行く……。
そうこうするうち、授業の終わりを告げる鐘の音に反応して、静かだった校舎は、ざわつき始める。
気分転換しようと、教室から回廊へ出てくる者、はたまた、次の授業への移動の為に、颯爽と回廊を歩む者など、少々賑やかになった。
「煌ちゃん、私、やっぱりだめだわ!だって、次は、家政の授業でしょ?材料費がかかるもの……」
「何を言っている。まったく!」
回廊の先では、煌にひっばられるかのよう歩んでくる美代の姿が見える。
「おやおや、これは、これは……」
仲の良い女学生がじゃれあいながら回廊を進んでいるとも取れる風景を目にした用務員は、意味深に呟いた。
「あら?三門様?家政の授業に参加なさるの?」
煌と美代の後ろから、つんとした面持ちの、いかにも意地悪そうな女学生がやって来る。
「珍しい事もあるものね?」
ほほほと、後からやって来た女学生は、美代を見ながら高笑った。
「なんだ?桜子、何か言いたい?戯言を言っていると遅れるぞ」
煌が、反撃に出る。
「あらっ、門代様?戯言と言うのはどうゆうことかしら?」
桜子と呼ばれた女学生は、底意地悪く、煌に向かっても高笑った。
「ふふ、私は正直に言っただけでしょ?三門様って、材料費が必要な授業は、お出にならないじゃない?見学とかおっしゃって、廊下からお教室を覗かれてますわよね?ふふふ」
これでもかと、嫌みな笑みを浮かべる桜子は、ご機嫌よう、などと白々しい言葉を吐いて、さっさと行ってしまった。
「おやまあ、女学生さんも、なかなか大変なようですなぁ」
あきらかに美代を見下した桜子の態度に用務員も同情したのか、小さく息をついた。
「あっ!用務員のおじいさん!そ、そんなんじゃないんです!あ、あの、別に何もないです!」
美代は不味いところを見られたとばかりに、これまた、へたな言い訳をした。
「ああ、大変といえば、大変だ。色々と誤魔化さなくてはならぬからな。で?お前は、どうしてここにいる?」
静かに煌が美代を庇っているのかなんなのか、用務員へ向かって横柄な態度と共に、不可解な言葉を発した。
とたんに、用務員の老人は、ビシリと背筋を伸ばし、煌に向かって一礼するとさっと跪く。
その有り様に煌は驚く事なく不機嫌そうに目を細めると、
「何用だ。学校にまで来るとはどういうことだ……」
少しばかり冷たい口調で用務員を責めた。
「申し訳ございません。お頭」
煌へ詫びを入れると、用務員は下げていた頭を上げた。しかし、その姿は、白髪の腰が曲がった老人ではなく、黒い軍服姿の八代だった。
「……八代。変装してまでの繋ぎということは……美代の身に何か起こったのか?」
煌が、穏やかな口調で八代を問いただすが、表情は厳しい。あきらかに、焦りを押さえ込んでいる。
「実は……。お頭!美代様が居留地へれ連れ去られました!」
煌の眉がピクリと動いた。