ステファンの膝の上で寝息をたてているはずの四郎が、ひょこっと首を付きだし異常に厳しい眼差しを向けて来たからだ。
なんとなく、黙っていろと言われているような気がして、美代はステファンに言われるまま静かにした。
それで良かったのか、四郎はゆっくりと目を閉じる。
美代は四郎が来てくれたと安心したが、結局のところ、四郎は猫なのだ。たってきは、眠る振りしか出来ない……。
確かに八代と繋ぎを取れる猫であるが、ただ、今の四郎に出来ることは、子猫らしく振る舞うことのみ。が、そうしながら、美代の行き先を確かめるつもりなのだろう。
つまり、四郎は八代に繋ぎを取るために、美代が何処へ連れて行かれるのかを確認しようとしている。それから八代へ知らせる。すべてはそこから始まる。
救世主が現れた様に見えても、美代がすぐさま脱出することは不可能で、とにかく今は堪え、黙ってステファンに連れて行かれなければならない。
そうして四郎が動き、隠密の実力を駆使した八代が美代を元の場所に連れ戻そうと迎えに来る。
そうだ。そうなのだ。
先程まで向けられていた、鋭く光る琥珀色をした四郎の双眸は、美代にこれからの手順を示していたのだろう。
ステファンにしても、ここまては物腰柔らかく紳士ぜんとしているが、振り返ってみれば、自分の思い込みという我を徹して美代を連れ去っている。
今も静かにと大きな声で注意をし、意外と厳しい面を見せた。
どこかで気が変わり、いや、激怒し、ステファンが美代をひどい目に合わせる事もあり得るかもしれない。
四郎のことも、放置しておこうかと一瞬ではあるが、思ったと告白したではないか。こう見えて、実は、冷血漢の側面を持っているのかも……。
やはり、一緒にいるのは、異国人なのだと美代は震え上がる。
「シロ、屋敷まで、まだ少しかかるからね、十分眠る時間はあるよ」
あいかわらず、ステファンは、四郎にとろけきっていた。これも、どこで、どう変わるか分からない。それに、とろけきり、優しくなっているのは、四郎に対してであり、美代へ、ということではない。
美代はぎゅっと、ひざの上で拳を握りしめ、最悪の状況が起こらないようにしなければと、心を引き締めた。
きっと四郎が上手くやる。そして、八代が助けに来る。
自分は足を引っ張らないよう、ステファンが逆上しないように行動しなければ……。そうして、無事にステファンの屋敷へ到着し、八代の助けを待つ為、時間稼ぎを行う。
それが、問題を起こすことなく、ここ居留地から抜け出す道なのだと美代には、ハッキリ見えた。
鼓動がドキドキ高鳴る。ステファンに熱だなんだと言われ、挙げ句、近すぎる距離になった時とはまた異なるものだった。どことなく、息苦しさを感じたが、ここで、失敗してはと思い、美代は覚悟を決めるかのごとく、ステファンの膝の上で丸く毛玉状態になっている四郎を見た。
すうすうと、いかにもな寝息をたてている四郎の姿に、すべては自分の為、美代をここから助け出す為なのだと改めて実感した。
ステファンは、四郎にすっかり夢中になっている。
美代はできるだけステファンと距離を置き、言葉を交わさないよう、できるだけ、関わりを持たないしようと、そっと顔を背け窓から外を眺めた。
先程の高揚感はどこかへ飛び去っていた。美代は目に飛びこん来る景色に夢中になる事はなかった。
窓の外は、すでに色々な商店や、華やかなドレス姿の女性達が行き交っていた情景は消え去っており、賑やかだった往来はどこか厳めしい雰囲気の建物が建ち並ぶそれに変わっていた。
役場や学校などが集まっている場所なのかもしれないと、美代は心の中で、蠢く不安を押し殺しつつ、街の様子を静かに眺めた。
その頃──。
「どけっーー!!道を開けろっーー!!邪魔だっ!!」
乗る黒馬の手綱を操りながら、八代は大路を駆け抜けていた。
怒号と馬の荒い蹄の音に、道行く人々は何事かと驚き、次々飛び退いていく。
全速力で駆け抜ける黒馬、そして、それにまたがる黒い軍服姿の男と来れば、皆、おおよその見当はつくようで、あたふたと、手近な店へ逃げ込み余計な事に巻き込まれないよう姿を隠した。お陰で八代は難なく進むことができている。
幸いにも、美代と別れざるを得なかった居留地の出入り口周辺と、目的地、煌が居るはずの華龍女学校はさほど離れていない。多少無茶な走りをしても、被害は最小限に押さえられると八代は思いつつ、はやる気持ちを黒馬にぶつけた。
胴を幾度も蹴られるからか、馬も、かなり気が立っているようで、その走りは非常に荒いものになっている。気を抜けば、通行人どころか、八代自身も振り落とされることだろう。
しかし、この先を右に曲がれば、良家の子女が通う学校が固まっている通称女学校通りに出ることができる。もちろん、その通りには目指す華龍女学校が存在する。とにかく、煌に報告しなければ。美代は、居留地に踏み込んでしまったのだから。
今後の動きをどうするか。美代をどのように奪還するか、早急に答えを出さなくてはならない。その為の煌、ではあるが、門代家の当主と言えども、正直、まだ若すぎる。外交問題に発展するかもしれない交渉事は、無理に等しく、引退している先代当主である御前様、つまり、煌の祖父の人脈に当たるのが妥当なのだろう。が、そうなると、今度は煌の面子という問題が発生するはずだ。
八代は、手綱を握る手に力を込めた。ここで、あれこれ考えても仕方ないと分かっているが、正直なところ、万事休すと言って過言ではない状態になっている。どうにかしなければと思えば思うほど、
そして、四郎の事も悩みの種だ。
四郎を居留地へ潜入させて良かったのだろうか。それを思うと八代の心は掻き乱だされる。