「ああ、馬車を追うのだ!四郎!あの異国人の屋敷の在りかを報告しろ」
「わかってるって!美代ちゃんの匂いをちゃんと掴んでるから、大丈夫だよっ!」
猫はくんと鼻を鳴らした。
「……お前は、犬か?!」
馬上から八代が呆れ返っている。
「あっ!八代ちゃん、猫の嗅覚をバカにしてるでしょ!あのさぁー、猫って、人間の数万から数十万倍臭覚があるんだよ!って、そんなことより、八代ちゃん早く煌ちゃんに伝えた方がいいんじゃない?」
「うむ、そうだな。美代様の事を早急にお頭へ知らせなくては!!」
警備対象が、立ち入り禁止区域に連れ去られてしまったのだ。隠密として、失態を晒すことになるが、もう八代の手に終えない事態になってしまっている。
ここは門代家の総力を使い、政治的な対立、つまり、外交問題に発展せぬよう、当主である煌に動いてもらうのが得策なのだろう。
八代は黒馬の胴を蹴る。
「私は、お頭がいらっしゃる華龍女学校へ向かう。四郎!そちらでおち会うぞ!」
手際良い手綱さばきを見せ、八代は言い放つと、街路を駆け抜けて行く。
「あいっ!!」
猫は元気良く返事をし、そのまま路地裏に姿を消した。
そしてその頃──。
あわや外交問題に発展しかけていると、何らかの圧力が自身の為に使われそうになっているとは夢にも思っていない美代は、馬車の窓から見える街並みに、驚嘆の声をあげていた。
「ステファン様!あれは?」
「ああ、あれは、バゲット、パン屋ですね。まるで棒に見えますが、れっきとしたパンなのですよ。そして、あの店のパンは、どれも美味しいのです。私の屋敷でも、あの店の物を買っていますよ」
「えっ?!市販の物を?お屋敷で作らないのですか?」
「美代さん、それほどあのパン屋のパンは美味しいのです」
ぱちんと目配せし、ステファンはふふっと笑っている。
「確かに、作ることもできるのですけどね、美味しいものがあるのに、それを食べない訳にはいかないでしょ?」
どうやら、ステファンの好物のようで、透き通った瞳をキラキラ輝かせながら美代へ言った。
パンの味を思い出しているのか、ステファンは至福の表情を浮かべている。
美代もつられてか、ゴクリと喉を鳴らしてしまった。
「ははは、美代さんは、分かりやすい。私の所へ来たら、ちゃんとパンが食べられます。楽しみにしておいてください」
「はい!ありがとうございます!ステファン様!」
美代は、しまったとばかりに、すぐ袖で口元を覆った。
これでは、単に食い意地が張っていると思われるだけではないか。
隣に座るステファンを上目使いで美代は伺った。きっと、呆れていることだろう。しかし、ステファンは、柔らかな笑みを絶やすことなく、美代へ窓越しに見える景色の説明を続けてくれた。
結局、ステファンは座席を変えるのは面倒だと美代の隣に腰を下ろしたままだった。
美代も、始めは緊張していたが、居留地の様子は、隣にステファンが座っていることをうっかり忘れさせてしまうほど見惚れてしまう物で、ついには、あれはなんだと街並みについて、ステファンへ質問してしまっていた。
異国の景色は、女学校の教科書や書物で美代も見たことがあった。それに、目抜通りである朱雀大路には、モダンな建物が連なって、異国情緒を漂わせている。
だが、美代が知っているそれらと、今見えている街の情景はどこか異なるもので、そう、本物を見ている、そんな、心に迫るものだった。
馬車が進む大通りの両脇には、美代が知らない世界が広がっていた
のだ──。
今まで見たことのなかった、バゲットというパンも見た。他にも、色々な商店が軒を連ねているが、驚くべきは、どの店も、出窓に売り物の商品を美しく陳列していることだろう。
日ノ本の国の商店は、のれんを潜り、店の中へ入らねば商品を見ることが出来ない。しかし、ここは、外から見ることができる。
実際、ドレス姿の婦人達がお喋りをしながら、ネックレスやブローチが飾られた出窓を楽しそうに見ている。きっと、小間物屋なのだろう。走り行く馬車の中からでも、商品の華やかさが伝わる飾りつけに、美代もつい、目で追ってしまっていた。