目にもとまらぬ早さで、側に来た馬に飛び乗ると、八代は手綱を握り、まさしく騎馬戦の始まりかのように、馬を飛ばす気満々な体制を取る。
「い、いや!!なりません!!お待ちをっ!!規則違反、いえ、外交問題に発展いたしますっ!!隠密様!!どうか!どうか!落ち着いてくださいっ!!」
声を裏がえしながら、憲兵が馬の前に立ちはだかった。
──何人たりとも、許可書を持たない者は居留地へ立ち入ることはできない──。
憲兵は、必死に、自身の役目を果たそうと立ち上がったのだ。
「わからぬかっ!!どけっ!!追わねばならぬのだっ!!」
「そ、そ、そこをなんとか!隠密様!!規則でありますっ!外交問題に発展したならば、も、も、もったいなくも、帝のお名に傷がつきますっっっっ!!!」
必死の制止に、八代の眉がピクリと動いた。
「貴様!!帝だと!気安くも軽々しくも、口にするとわっ!!!」
馬上で八代の怒りが爆発した。
ひいいいーーと、憲兵が叫び逃げ出そうとしたその時、か細い声がした。
「もおーー、うるさいなぁ、昼寝もてきないよぉーー」
馬のたてがみが、もそもそ動く。
「四郎、お前いたのか?」
先程までとはうって変わって、八代は穏和な声を出すと、何故かたてがみを掻き分ける。
「うむ、こんなところで、良く昼寝ができるものだ」
言うと、たてがみの中から何かを摘まみだし手のひらに乗せた。
「な、な、なんですかっ?!隠密様!そ、そ、その、白い毛玉わっっ!!」
憲兵は驚き後ずさった。
「何を驚くことがある?」
「な、何をって!!驚くでしょ!普通!け、毛玉を手に乗っけて、しかも、喋ってっ!なんなんてすかっぁっ?!」
「なんなんですかぁ?とは、何だ?」
馬上の八代は、毛玉をちらりと見ると、すぐに厳しい視線を憲兵に送った。
その睨み具合の恐ろしさに、
「しっ、失礼いたしましたっ!!じ、自分の目の錯覚のようですっ!!じ、自分には、何も見えておりませんっ!!」
憲兵は、腰が引けつつも、敬礼し、八代の機嫌をとってみるのだが、
「八代ちゃん、憲兵は、所詮、憲兵だからさぁ、放っておいて、隠密の仕事しようよ!」
バッサリと切り捨ててくれる声がする。
「ひぃあぁーーー!!ま、また、しゃ、喋ったーー!!」
憲兵は、立場も何もかも忘れたように、思い切り裏返った悲鳴をあげると、隠密の前であることなど忘れているのか、脱兎のごとく駆け出した。
「あっ、職場放棄、逃げ出した。やっぱさぁー、憲兵って、そこまでなんだよねぇーー」
「うむ、四郎よ、お前もそう思うか」
八代は、小バカにするかの様に、ふんと鼻で笑った。
「で?あたいの出番という訳ね?」
八代の手のひらに乗る毛玉は調子良く喋り続ける。
「……そうだな。私が動けば憲兵が言ったように後々問題になる可能性が高い……。四郎、頼めるか?」
「まっ、それが、無難じゃなぃ?」
おお、そうかそうかと、八代は嬉しげに毛玉を撫でた。
「では、行け!四郎!美代様を追うのだっ!」
「あいっ!!」
元気良く返事をする毛玉は、八代の手から、ピョンと跳ね落ち、そのまま、コロコロ転がり続けると、なんなく居留地の出入り口を通過してしまう。
なおも転がり続ける毛玉の勢いは止まる事を知らないようで速度は、ぐんぐん早くなって行く。ところが、毛玉が大きくなった、いや、形がだんだん変わり始めた。
そうして、丸い塊だったものから、ひょこっと、獣の足が伸びだし、頭、胴体、最後に、ふさふさとした尾尻が現れた。
「じゃ、八代ちゃん!行ってくる!」
毛玉だったモノは、くるりと向きを変えると八代へ言う。
猫だ。
毛足の長い白猫が、ふさふさの尾尻をゆらりと振りながら八代を見ている。