招待された。そればかり考えていた美代だったが、いざ、立ち入りの制限がある場所に踏み込んでしまうと、それも、手順を踏まずにとなると……。これから、どうなるのか、にわかに恐ろしくなった。
(八代ーー!!)
美代は混乱し、頼れる人間、常に助けてくれる八代の事をひたすら思う。
その名前を、今にも叫びそうになっているが、ステファンとはまだ体が接近していた。
美代は、恥ずかしさからくる緊張から声も出ない状態だった。例え声が出たとしても、この状態では叫ぶなど、はしたないのではなかろうか。
そんな美代の心の葛藤を知らぬのがステファンで、速度を落とし、通常の走りに戻った馬車に安堵している具合だった。
一方、美代にこれ程まてに頼られている八代はというと……。
呆然としていた。
憲兵を相手にしている隙に、停車していたはずの馬車が暴走し、駆け抜けて行ったのだ。
「なっ?!なんたること?!憲兵!!貴様は何をしていたっ!!」
「あのっ、は、はい!!自分は、隠密様に敬礼を……」
「何を言っている!!貴様は本分を忘れたかっ!!何のために、ここにいるのだっ!!」
「じ、自分はっ!!警備のためにおります。しかしながら、隠密様が……」
憲兵は、殺気立つ八代の迫力に思わず後ずさりながら、しどろもどろになっている。
いつもの様に居留地への入口を守っていた。すると、道に不自然に止まる馬車が目に入った。通行の邪魔になると注意をした。ちゃんと、自身の役割は果たしたはずだ。ただ、そこに隠密という立場の人間がいた。それが誤算だったという話で、しかも、隠密が馬車を注意をしているのだから、見守るしかないだろう。というよりも、何度も下がれと邪魔者扱いされたのだから、遠巻きに見ていた事の何が悪かったのだろう。などと、憲兵は思うが、結局、隠密には逆らえない。
自分はどうすればよかったのだろうか。憲兵は敬礼したまま、考えこんだ。
「き、貴様はなんということを!あの馬車には、美代様が!!!靴のお召しかえもまだなのにっ!!!」
八代の怒りは相当なもので、憲兵は、何かを突きつけられる。
その勢いに、瞬間、怒りに任せ、切られるかと、ぎゅっと目を閉じてしまったが意を決して目を開いてみれば、女物の草履が見えた。
「……あ、あの、こ、これは……」
どうゆうことなのだ。自分にどうしろというのかと、面と向かって聞くことができれば楽な話なのだが、前にいるのは、怒りに怒ったド迫力を発する隠密。
そもそも、憲兵ごときが言葉を交わせる相手でもない。一緒にいるということすらあり得ない事なのに、女物の草履ときた。あり得ないを越え、これは、何を意味するかなのであるが……。
男の自分に、女物をどうしろというのだろう。まさか、この草履を履けと言っているのだろうか。憲兵に疑念が沸き起こる。
密かに頭の中で、この状況をうんうん唸り考えこむ憲兵へ、またしても激が飛んできた。
「馬車を追うっ!!!どけっ!邪魔だっ!!!」
鬼の形相まで向けられ、言われた事は何なのかと、憲兵は道に停車していた馬車へ視線を移すが、止まっていたはずのそれが、ない。後方で、カラカラ小気味良い車輪の音が響いている。
馬車はいつの間にか出入り口をくぐり抜け居留地内を悠々と進んでいるのだ。
「貴様がぼっと突っ立っている間に、異国人めは、駆け抜けて行ったのだ!騙し討ちという汚い手を使ってなっ!!!」
「なっ、なんとっ!?」
八代に怒鳴られ、憲兵は起こった事に腰が抜けそうになる。
馬車は、尋問を無視して進んで行った。これこそ、規定違反であり、憲兵にとっては、もっともあり得ない事だった。
隠密の登場で、うっかり自分の職務を見失ってしまった。あろうことか、馬車の通行を見過ごしてしまうとは。
憲兵がどうして居留地の出入り口に門番として控えているのか。それは、日ノ本の国の者が立ち入れない場所へ、例えば武器や異端者、はたまた、国家機密の様な
もし、それらを悪用し、日ノ本の国の根本を覆す様なことを行われても、残念ながら治外法権という特権を盾に、こちらは手も足も出ない。
万事休すとならない為に、国土の安全を保つべく、憲兵は門番として通過する者達に目を光らせているのに、まさか、隙を突かれてしまうとは。
では、あの馬車には何か問題があったのだろうか。そうでなければ、隠密まで登場はしないだろうに。
さらに、女物の草履……。
隠密が没収したに違いないが、何故そこで女物の草履なのか?
憲兵は、どんどん自身の思考を追い詰めていく。当然答えは出る訳もなく、ついに、八代へ懇願してしまう。
「お、隠密様!じ、自分は、規律違反を起こしてしまいました!ど、どうか、お許しください!いや、そうではなく!軍法会議にかけ、私の処罰をお決めくださいっ!!」
ともすれば、日ノ本の国の安全を脅かすことをしでかしてしまった。いや、人知れず悪を成敗しようとしていた隠密の仕事を邪魔してしまったのかもしれない。
もう、憲兵の頭の中は、いっぱいいっぱいで、うっすら涙ぐんでいる。
「ええーーい!!何を先ほどから一人でごちゃごちゃ言っているっ!!」
八代は、とうに堪忍袋の緒が切れており苛立ちながら持っている、草履を背へ回した。
どうやら、上着の飾りベルトに銃弾などなど、軍人らしい小物を入れる小袋がついているようで、手早くその中へ、草履を仕舞い込んだようだ。
それは、ぱっと目には、背中に隠した物が消えてしまう様に写る。もちろん、取り出す時も同様で、背後から物が出てきたとステファンが驚いたのが、このせいだった。
そして、もう一人。八代の手際のよさに驚く者がいた。
憲兵が、涙目を大きく見開き、さすがは、隠密!!などと驚愕していた。
そんな事に付き合えるかとばかりに、八代は、ピューと指笛を鳴らし、乗っていた黒馬を呼び寄せる。
「追わねば!あの馬車を!!!」