「え?!」
普通は聞こえないはずの鞭の音が馬車の中にまで響いてきた。美代は、何が起こるのかと驚きを隠せない。
同時に、馬の嘶きが聞こえ、ガタンと馬車が揺れた。
「きゃっ!」
急な揺れに、美代は座席から転がり落ちそうになる。
「おっと!」
すかさず前のめりになった美代の体を支えるためステファンが腕を伸ばしてきた。
「美代さん、大丈夫ですか?あいにく、まだ馬車は揺れるからね」
言うように、ガラガラと車輪の大きな音が流れ、馬車はガタガタ揺れた。
それだけ速度を上げているのだ。
「今なら、大丈夫だと思ってね」
ふふっと、ステファンはいたずらっ子のように笑っているが、美代には、何がなんだかさっぱりだった。それより、気がつけば、ステファンの腕が美代の体に回されており、美代は腕に掴まる体裁になっている。
つまり、男性に半ば抱き抱えられている状態だわ、ガタガタ揺れに揺れているだわで、必要異常にステファンと密着してしまっている。
「あっ、え、えっと……」
あまりのことに、美代は、ますます顔を火照らせた。
まずい。また、熱があると額に手を当てられるかも。などと、余計なことまで考えてしまい、美代は、しどろもどろの状態になってしまう。
ピシャリピシャリと、勢い良く鞭打つ音が響いていた。
そのつど、ぐんと馬車の速度が上がり、揺れもひどくなって行く。
「美代さん、憲兵を突破するためです、もう少し辛抱してください。あと少しで、居留地へ入ることができます」
出入り口を通り抜け、敷地内に入ってしまえば、憲兵は追って来れない。こっちのものだと、ステファンは真顔で言いつつも、どこか楽しそうだった。
「……いつも、しつこい尋問を受けてますからね。たまには、騙し討ちぐらい構わないでしょう」
よほど憲兵に恨みでもあるのか、ステファンは嬉しそうに悪態をついた。
「あ、あの、その……」
美代はというと、それどころではなかった。確かに、なんとなくではあるがステファンが高揚するのも分かる。日々見張られている様なものならば、相手の鼻をあかしたのだから気分も良いことだろう。
でも、これはありなのか。
美代はステファンの腕の中にいる。そして、いや、当然ながら顔が近い、近すぎる。
美代は、どうしようもない恥ずかしさから俯くことしかてきないでいた。
「美代さん!あなたは大丈夫ですよ。違反というか、まあ、ちょっぴり反則的な事を仕出かしたのは私ですからね。憲兵に睨まれるのは私だ。しかし、我々には、何かと特例があるんです。異国人特権というやつでね、結局私も憲兵に捕まることはない」
「え?!捕まる?!」
こそこそ、ステファンが動いていた事は美代も何か引っかかっていたが、やはり、まずいことを行ったのか。しかし、あれこれ聞かされた所、どうも、処罰は免れるような……で、いいのだろうか?安心していて良いのだろうか?
憲兵もだが、とにかく美代にとってはステファンの方が問題だった。
「あ、あ、あの、あの、近い……近いのですが……」
俯きながらも、美代は、ステファンへ恐る恐る訴える。
細身に見えるステファンだったが、やはり男性だけはある。支えられているというべきよりも、抱き締められているに近い腕は、たくましく、がっしりとしている。接している体も、大きくて美代は、すっぽり包み込まれているに等しい。
それだけでも十分に恥ずかしい事であるのに、接近しすぎて、ステファンの体の熱がしっかり感じられ、更に喋る度に、すっと、美代の耳元へ吐息が流れてくる。
(もう、もうだめっ!八代ーー!!)
いつもの癖で、美代は八代に頼っていた。
そんな美代の心の内などお構いなしなのだろう。ステファンは、揺れて危ないからと離れてくれない。しかも、
「ああ、残念ながら我が屋敷は、先ほど申した様に、幾ばくか不便な地区にありまして、近くはないのですよ。居留地の端、と言った方が美代さんには分かりやすいかもしれませんね。ですから、近いというよりも遠いんです。もうしばらくの辛抱ということで……」
(いや、そうではなくって!)
美代の言う近いの意味が、まるっきり通じないという状況に、思わず顔を上げてしまったが、そこでステファンとの距離の近さを再認識してしまう。
目の前には、ステファンの輪郭があった。
(や、や、やっぱり、近いっーー!!!)
「よし!美代さん!出入り口を通過した!居留地内にはいりましたよ。もう、誰も邪魔立ては出来ません。安心なさい」
(いや、もう、そんなことより、この近さを!!!)
完全に自分の都合しか考えていない、そう、またもや勘違いしているステファンに、美代は言葉がなかった。正確には、恥ずかしすぎて何も言えないのだが、結局、異国人の生活の場所、居留地へ連れてこられてしまったようだ。
つまり……。もう、後に引けない所にいるのだと美代は、愕然としてしまう。