「美代様!お気を確かに!」
街で見かける憲兵や軍人とはまた異なる、黒の細身の軍服に身を包む、八代と呼ばれた長身の男が美代の前で跪く。
その様子を見た馬車の青年は、顔を曇らせ呟いた。
「……まいったな、まさか隠密の登場とは……」
ふんと、青年の呟きを鼻で粗いながら、八代は、ハンカチをとりだすと、美代の足先に巻き付ける。
「応急処置でございますが、おみ足を固定させて頂きました。美代様、歩くことは可能でしょうか?」
八代は、パックリ口を開けていた美代の靴の甲を縛り、かろうじて靴といえるものに修復したが、目を細め、どことなく諦めのような視線を美代へ送っている。
「ありがとう!甲と靴底を固定してくれたから、なんとなく歩けそうな気がするわ!」
救世主現るとばかりに、美代はご機嫌な声をだす。
「なんとなく、ですか。それはよろしゅうございました」
美代へ向かって律儀にお辞儀をした八代は、つかつかと馬車に歩み寄る。煌は不敵の笑みを浮かべ、突如現れた八代という男の動きに注視している。
「して、異国人!何用だ!」
八代は、返答次第ではどうなるか、腰に下げているサーベルを抜き、窓から顔を覗かせる青年に切っ先を見せつけた。
「私は、ドラムント王国から派遣されました、伯爵のステファン・ミレーネと申す者。そちらの女中さんの具合が悪そうでしたのでお声がけしただけです。まさか、あなた様方が、隠密とは存じ上げずに……」
ミレーネ伯爵と名乗った青年は、あきらかに困惑していた。
「ははは!異国人!やっと我らの素性がわかったか!言ったろう!内輪の事だと!手出し無用だと!」
煌が勝ち誇ったように高笑う。
「……しかし、我らの立場を理解しているということは、異国人。お前は、ただの伯爵ではないな」
煌は、八代と視線を交わした。
八代はサーベルを鞘に収めると、遠巻きに集まっている者達へ見世物ではないと声を轟かせ、野次馬を蹴散らす。
「私は駐在大使の秘書官を務めております。大使の補佐は勿論ですが、時には、我が国の商品、精密器機のご案内をいたしております」
馬車の中から青年──、ステファン・ミレーネ伯爵は、強ばった顔つきで慎重に言葉を続ける。
伯爵も噂には聞いていた。立襟に赤ライン入りの黒い軍服姿には気を付けろと……。
彼らは、帝に近い国の要人を護衛し、時に影武者となる。
この隠密と呼ばれる者達は、国の機密を守る裏の人間で、目をつけられると、身に覚えのない容疑で拘束される事もありえる。できることなら関わるなと、伯爵はベテラン駐在員に教えられていたのだ。そして、その隠密が前にいる。
伯爵は、我が身に振りかかっている事が夢であってくれと祈った。が、ふと思う。何故、この隠密とやらは、公然と女中を虐げていたのだろう。うずくまるほど具合が悪いというのに、叱りつけ、足先をきつく縛った。逃げられないようにする為か?
彼にとって、日ノ本の国は初めての赴任地だった。この二十三歳の青年には、見るものすべてが新鮮に映り、時に、粗野と思える異国の慣習が、彼の立場と責任、伯爵としてどう生きるべきかの理想を常に刺激してくれていた。
伯爵は迷うことなく自身の義務とばかりに口を開く。
「あなた方がどのようなお立場であろうと、一言申し上げたい!自らの女中を虐げるのは、上に立つ者としていかがなものか!!」
伯爵は熱っぽく語り、ドアを勢い良く開くと、ステップを踏みしめ馬車を降りた。
「き、貴様……」
八代は、そのまま口ごもる。
伯爵が何を言っているのか理解できないからだ。
いったい、どうすれば美代が女中になるのだろう。
煌も、部下である八代の思いと同様のようで、呆れ返って言葉がでない。
その隙を突くように、伯爵は美代の側へ行き言い放つ。
「この国の上に立つ者に心はないのかっ!女中さん!あなたは何も悪くない!それなのに虐げられている!私の屋敷へ来なさい!これは、人道的観点から見逃すことが出来ない案件だっ!」
などと、頓珍漢なことを真顔で言い、美代を馬車へ促した。
「あ、あの?」
何か大きな誤解があるような気がして、美代は恐る恐る尋ねるが、伯爵は一言、
「ノブレス・オブリージュ!!」
そう叫び、美代の手を取ると馬車へ共に乗り込んだ。
バタンとドアが締まり車輪が音を立てて走りだす。
煌は、はっとして従者へ命じる。
「八代!追え!」
「御意!」
八代がひらりと身を翻し駆け出した。
「お頭」
続いて煌を呼ぶ声がする。
「
何故か馬車に乗せられ行ってしまった
「
「御意。この
美代と瓜二つの女学生は深々と煌へ頭を下げるが、次の瞬間、
「ほんとだわ!学校に遅れちゃう!急ぎましょう!煌ちゃん!」
発する声も口調も、完全に美代のものになっていた。
煌は、美代の影武者である部下へ頷くと、何事も無かったように歩みだした。