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第四皇子と白百合、運命のつがい婚の顛末。

 曙光あさひというにはかすぎる光が、牀榻しょうとうの奥の漏窓すかしまどから射し込んでいた。


 どうも払暁ふつぎょうは、うに過ぎてしまったらしい。夜闇はもはや、ここには残滓ざんしばかりも残ってはいなかった。


 はた、はたり、と、緩慢に瞬きをする。


 目を覚ました燎琉りょうりゅうの視界に最初に入ったのは、我が腕の中で眠る瓔偲えいしの整った美貌だった。


 すぅ、すぅ、と、聴こえるのは穏やかな寝息だ。燎琉はそれだけで、胸がいっぱいに満たされるようだった。


 ほしがる想いには際限がなかった。泉のように滾滾こんこんと湧く慾情にはしらされて、昨夜ゆうべは結局、何度も何度も求めてしまった。最後には、疲れ切った瓔偲が、気を失うようにして、ことん、と、眠り込んでしまったのだ。そのことを思い出しながら、燎琉はいま眠る相手の前髪をそっといた。


 組み敷いた身体の奥から、気を吐いたばかりの己を、ぬと、と、抜き取った後、閉じられれてしまった蒼白い瞼にそっとくちづけを落として、燎琉は瓔偲の隣に横になった。そのときも、こんなふうに、汗で額に張りついた彼の黒髪をけやるように梳いたのだ。そうしながら、秀でた額に、それから鼻頭に、頬に、と、順に触れるだけの接吻をした――……その際に身体を芯から満たした、たまらない幸福感。


 最後にくちびるをついばんで、しばらく穏やかな寝顔を見下ろしていたら、胸が詰まるほどのいとおしさが込み上げた。じん、と、目頭が熱くなるのを感じながら瓔偲を抱き締めて、さいわいを噛みしめながら、やがて燎琉も、とろとろと眠りについたのだった。


 燎琉は、いままだ眠ったままの瓔偲の乱れた黒髪を、またそっといた。婚礼用の深紅のしたぎは、互いにすっかり乱れてしまっている。紅い紗のとばりが下ろされた牀榻しょうとうの中には、まだ気怠く甘ったるい空気が後を引いていた。


「おはよう」


 相手が眠っているのは承知で、ちいさく囁きかける。口許をゆるめて、相手の額に、瞼に、そっとくちづけた。


 それから、ほう、と、息をついたときだ。


「――殿下」


 扉の向こうから、こちらを呼ぶ声が聴こえてくる。どうやら外に皓義こうぎが控えるようだった。


「おやすみのところ申し訳ございません、殿下……鵬明ほうめい皇弟殿下がおいでです」


 いくらこちらに遠慮会釈のない幼馴染の従者といえど、新婚の後朝きぬぎぬに水を差すのはさすがに気が引けるのか、声はごく控え目だった。


「いま行く」


 燎琉は応じて――すこし名残惜しさを感じながらも――身を起こした。瓔偲を起こさぬよう気を付けながら、そっと寝台を下りる。衣を整え、背子うわぎまとうと、とびらを引き開けた。


「おはようございます、殿下」


「うん。――叔父上は何と?」


 扉の前で控えていた皓義に問うと、相手はちらりと苦笑した。


「新婚伉儷ふうふを邪魔しにきた、と……妃殿下はまだおやすみでいらっしゃいますか?」


「うん」


 頷きながら、妃殿下か、と、燎琉は心中に繰り返した。皓義の使ったその呼称に、すこしだけ、面映おもはゆいものを感じる。


後朝きぬぎぬの邪魔とは、いかにも叔父上らしい」


 しあわせについついゆるみそうになる頬を引き締めつつ、努めて、呆れたような息をつく。いくら鵬明でもまさか本気でそんなことをしにきたわけはあるまいが、自分の中に生じた照れくささを誤魔化したいのもあって、敢えてげんなりと嘆息するふうをつくった。


 そして、華垂かすいもんのところには、まさにその鵬明の姿が見えていた。





「叔父上」


 燎琉は年嵩の親族に対して会釈で礼を示してみせる。


「この刻限で瓔偲の姿がないところを見ると、昨夜ゆうべは少々無理をさせたものと見える。が、伉儷ふうふむつまじい初夜を過ごすのは良いことだ。――楽しかったか、燎琉?」


 瓔偲が起きてきていないことをあげつらって、叔父はくつくつと喉を鳴らしてこちらをからかった。


 外へ出てみると、日はもう随分と高い位置だ。おそらく、もはやひるのほうが近い刻限であろう。実際、すこし寝過ごしたどころの話ではなかったから、からかわれても仕方がないのかもしれなかった。


 燎琉は返す言葉もない。


「……何か御用ですか」


 まりの悪さゆえにわずかに口を曲げながら低い声で問うと、叔父は、からから、と、明るく笑った。


「瓔偲から処分してくれと言われて預かった私物の中に、どうもお前に託したほうがよさそうなものがあってな」


 そう言って鵬明が取り出したのは、古びた薄い帳面だった。


「瓔偲の書き付けだ。まだ最初の郷試を受ける前に書いたものだそうだが、もう必要ないから好きに処分しておいてくれと言って、昨日、繍菊しゅうぎく殿でんに置いたままにしていった。が、改めて見てみれば、どうも威水いすいの氾濫や築堤に関する調べ書きだろう。お前には有益なのではないかと思って、それで持ってきたのだが……」


 叔父が差し出した帳面を受け取り、燎琉はぱらぱらと幾葉かをめくってみた。


「これ、は……」


 記された中味を見て、燎琉は息を呑んだ。


 帳面自体は古びていて、瓔偲が十年程も前に書いたものであるというのも納得だ。だが、そこに記されている内容に、燎琉は覚えがあった。


「あの、冊子……」


 思い出すのは、燎琉が工部こうぶの書庫で運命のように手に取った、威水の氾濫被害を詳細にわたってまとめ、かつ、新たな堤普請の工夫についてを記した冊子である。燎琉が蔵書閣である昭文しょうぶん殿でんに通い詰めるようになった、そのきっかけの書物だった。


「なんだ?」


 尋常でないこちらの様子に、鵬明がいぶかるような声を上げた。


「いえ……俺が工部から借り受けている冊子の内容なかみが、これと、そっくり同じなのです」


 燎琉の持つ冊子のほうが、やや体裁が整えられてはいる。しかし、中に記されていることは、間違いなく、いまこの手にある帳面のそれと等しい。あの冊子を読み込んで来た燎琉だからこそ、確信が持てた。


「どう、して」


 燎琉は呆然とつぶやいた。


 だが、ここまで来れば、結論は知れているではないか。あの冊子は、まさに、瓔偲のものだというこの帳面を下書きとして、清書されたものだったからではないのか。


「瓔偲……お前、なのか……」


 燎琉がここのところずっと首っ引きになっているあの冊子。匿名で皇帝のもとへと奏上され、工部尚書の手に渡ったというあれを記したのは、瓔偲だったということだ。


 おそらくは癸性であることが判明したために科挙の受験資格を失って、ほとんど屋敷に軟禁されるに等しかった頃のことだろう。志を諦め切れず、せめて治水の権を持つ国府の誰かが手に取ってくれればと、そんな一縷の望みをかけてしたため、密かに送ったものではなかったのか。


 そういえば、あの冊子をみつけたとき、燎琉は感じはしなかったか――……甘やかにも、かつ、凛と清冽に匂い立つ、あの運命の香りを。


「瓔偲……」


 燎琉が信じられないきもちで目を瞠っていると、叔父が、ああ、と、なにやら思い起こすふうに口にした。


「そういえば、昨日、瓔偲が言っていたな」


 燎琉は鵬明を見る。こちらの視線を受けて、相手は、くすん、と、肩をすくめて見せた。


「ほんとうに帳面を処分して構わないのかと確認したときだが、しかるべき者の手にたしかに届いたようだから、もう要らない、と、そう……なんとも穏やかに笑んで言うものだと思ったが、それもそのはずだな。あれの言う然るべき者とは、お前だったのだから」


 しみじみと呟くと、鵬明は目をすがめて燎琉を見詰めた。


 燎琉は、はたはた、と、目をまたたくく――……それはまさに、運命と呼べる何かではなかったか。


 自分たちは、出逢い、つがうよう、定められていたのではないのか。企まれていたのではないのか――……すなわち、天によって。


 そう思ったとき、じん、と、瞼が熱くなった。込み上げるもので、胸が熱い。燎琉は我が手にある帳面を見下ろすと、ぎゅっと力を籠めて、それを握りしめるようにしていた。


 燎琉が冊子を見せたとき、どうして瓔偲は、それは己が書き記したものだ、と、そう言わなかったのだろうか。なぜ黙っていた、と、燎琉の中には、すこしだけ、相手を問い詰めたいようなきもちがある。告げてくれていれば話ははやかったものを、と、そう思う。


 けれども一方で、いまの燎琉には、瓔偲がそれをすぐに燎琉に告げなかった理由もわかるような気がしていた。きっとそれは、癸性ゆえに、これまでずっと瓔偲が理不尽に抑圧され続けてきたことと無関係ではないのだろう。


 わたしなど、と、度々そう口にする瓔偲の陰のある表情を思い起こして、燎琉はくちびるを引き締めた。


 ないがしろにされること、こらえること、諦めること、そんなことに慣れてしまった彼の心を、燎琉は、すこしずつでも解き放ってやれるだろうか。彼がいつかこころざしのままに振る舞い、生きられる日が来るように――……それまで、自分こそが必ず彼を守っていかなければならないのだ、と、燎琉はしずかに、けれどもたしかに、心の奥底に誓った。


「なあ、燎琉」


 ふと、鵬明が声をかけてくる。燎琉はやさしく細めた目でこちらを見詰める叔父のほうを、真っ直ぐに見返した。


「瓔偲は……お前のつがいは、優秀な国官だった者だ。年齢的にも、お前はまだまだ、まつりごとるには頼りない部類だろうがな。瓔偲は必ず、お前をたすけるだろう。――大事にしてやれ」


 そう言うと、鵬明はまだ瓔偲が眠っているはずの正房のほうへと視線を投げた。しばらく無言で堂宇を眺め、やがて息を吐くと、ではな、と、ひと言告げてきびすを返す。 


「言われずとも」


 燎琉は託された帳面を持つ手に再び力を籠めつつ、去って行く叔父の背に向かってきっぱりと言った。


「言われずとも、大切にします。――瓔偲はほかならぬ、俺の伴侶つまなんですから」


 それはまた、己自身と、そして瓔偲への誓言でもあった。





 鵬明を見送って正房に戻った燎琉は、そこに瓔偲の姿がまだないので、そのまま牀榻しょうとうのほうへと歩み寄った。中を覗き込めば、瓔偲はいまもしとねの上だ。いつの間にか、昨夜ゆうべ燎琉の脱いだ婚礼衣装を掻き寄せ、腕にしっかと抱いて眠っている。


「瓔偲」


 その姿の可愛さに思わず口許をゆるめながら、燎琉は伴侶つまの名をそっと呼ぶ。


「瓔偲」


 乱れた黒髪の隙間から、白いうなじがのぞいていた――……そこには、あの日、燎琉が瓔偲を咬んだあとがくっきりと残っている。


 燎琉は寝台に近付き、手を伸べると、うなじにある痕をゆっくりと撫でた。白い膚に紅く映える傷痕に、再びの誓いのように、静かにくちびるを寄せる。


 ふわり、と、凛として清冽な、百合の香が匂い立った。


「瓔偲」


 くちびるを離して三度みたび呼ぶと、血の色の透けた薄い瞼がふるえて、その下に理知の光を宿した黒眸が覗く。


「……殿下」


 わずかに掠れ気味の声が燎琉を呼んだ。


「桂花の、いい香りが、いたしますね……」


 瓔偲がやわらかに微笑むので、燎琉も相手の髪を梳きながら、穏やかなきもちで微笑した。


院子なかにわの桂花……ひとさし、折って来ようか?」


 問うと、ふ、と、瓔偲は目を眇める。彼はゆっくりと身を起こしたが、燎琉を見詰め、ふるふる、と、ちいさく首をふった。その仕草は、いい、と、燎琉の申し出を遠慮して断るのか、それとも、いま己が感じている匂いは本物の桂花のそれではなくて、つがいである燎琉の匂いのことだ、と、そう伝えたいのかもしれなかった。


 くちもとをそっと綻ばせている瓔偲のしずかな表情を、燎琉はまじまじと見詰める。黒曜石の眸に宿る光に惹かれて、ほう、と、息を吐いくと、そのまま、引き寄せられるように瓔偲のくちびるにくちびるを寄せた。


 触れるだけのくちづけを解いて、彼我の吐息のまざる距離で見詰め合う。


「あの、な……叔父上がこれを届けてくれたんだ」


 燎琉は瓔偲の前に鵬明から受け取った帳面を差し出して見せた。


 瓔偲が、は、と、ちいさく息を呑む。敢えて黙っていたことを燎琉に知られたと悟ったのだろう、相手はまりの悪そうな顔をして、目を逸らしてしまった。


 燎琉は苦笑する。


「これから、傍らで、俺のことをたすけてくれるか?」


 手の中の帳面を撫でながら問うと、しばらく困ったように躊躇った後、けれども瓔偲は再び燎琉のほうへと真っ直ぐな眼差しを向けてくれた。


「はい」


 ちいさいながらも、彼はたしかに、そう頷く。


「わたしは……殿下のつがいで、伴侶つま、ですから」


 燎琉の顔を見詰めながら、瓔偲は、そ、と、微笑んだ。


「たのむ。――俺も、お前を、だいじにする。必ず、守るから」


 燎琉は言って、瓔偲の身体に腕をまわした。


「お前こそが……俺の、唯一の運命だ」


 相手を抱き締めながらしみじみとそう口にして、燎琉は、我がつがいである瓔偲に、しずかにくちづけを贈った。

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