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4-7 思わぬ衝動

「殿、下……」


 燎琉りょうりゅうの入室に気付いた瓔偲えいしは、はっと我に返ったように声を上げた。


 それから初めて、自分が取っていた行動に気がついて驚くようだ。黒曜石の眸をまるまるとみはって、さっと燎琉の褙子うわぎを手放した。


「あの……すみ、ません。ご不快を」


 目を伏せて、そんなことを言う。どうやら先の燎琉の言葉を、自分への非難の言葉と受け取ったらしかった。


「っ、ちがう……! べつにいまのはお前をとがめたんじゃなくて……ただ、驚いただけなんだ」


 燎琉は慌てて言い募った。


「お前がそんなことをするなんて意外で……それだけだから、怒っているわけじゃない」


 改めて告げると、燎琉は房間へやの奥のながいすにかけている瓔偲のほうへ、すたすたと歩み寄る。その間、瓔偲はうかがうようにじっとこちらを見詰めていた。


 瓔偲のすぐ傍らに立つと、燎琉は、ふう、と、ひとつ深呼吸をする。


「隣……座ってもいいか?」


 許可を求めると、瓔偲はちいさくうなずいて見せた。


 燎琉は榻に腰掛ける。そうはしたものの、次に何を言っていいかわからず、黙り込んでしまった。


 場に沈黙が落ちる。


 痛いほどの静謐の中、隣から燎琉を見詰める瓔偲が、はたり、はた、と、ゆっくりと瞬いた――……それが、とてもきれいだ。


 燎琉は瓔偲のほうへ手を伸ばすと、そっとその頬に触れた。


「ちょっとだけ……びっくり、した」


 いくらか視線をさまよわせた末に、ぼそ、と、言う。


 本来であれば、やはり今度のことには吏部りぶが絡んでいるようだ、と、まずは瓔偲にもそのことを報告すべきなのだ。それなのに燎琉は、まるで違うことを口にしていた。


「つがい同士は、自然とかれ合うものだと言われてるだろう? でも、お前は……不慮のこととはいえ、俺とお前はつがいになったはずなのに、その俺の傍にいても、お前はちっともそういう素振りを見せなかったから……なんというか、あれは俗説なのかとおもったくらいだ」


 燎琉は言いながら、瓔偲の頬をするりと撫でた。


 長いまつげの縁取る眸、白く薄い瞼の下の黒眸が、じっと燎琉を見ている。燎琉もまた熱っぽく瓔偲を見詰め返すと、やがて相手は、すっとこちらから視線を逃がしてしまった。


 それはまるで、どこか恥じらうかのような仕草だ。


「つがい同士は、惹かれ合うもの……殿下のお傍にいると、時折、頭がぼうっとなります。殿下に、ふれてほしくて……」


 瓔偲はそこでゆっくりと眸を閉じると、己の頬に添えられている燎琉のてのひらにそっと懐くようにした。


「ふれられれば、この身のうちに、深いよろこびが満ちます。ずっとこうしていてほしい、と、無意識に願ってしまうのです。わたしなど、殿下の将来にとっては邪魔者でしかないのだと、頭では理解しているはずなのに……すみません」


 燎琉のてのひらに慕わしそうに頬を寄せながらも、瓔偲は苦しげに柳眉を寄せた。


「どうかお情けを、と、いつか恥もてらいもなく、殿下にそう乞うてしまいそうで……そうならぬよう、必死にこらえていても、時折、あふれてしまいそうになります。それが、わたしには、とても、こわいのです。だって、最初に……ご迷惑はおかけしない、と、そう約して、ここへ参りましたのに」


 切なげに溜め息を吐く相手を前に、燎琉は、こくり、と、思わず喉を鳴らしていた。


 また、白百合の芳香かおりが、どこからから濃密に匂い立つようだ。


「……瓔偲」


 はじめて、相手の名を呼ばわった気がする。その声は、わずかに掠れていた。


 燎琉の呼びかけに応えるように瓔偲は閉じていた瞼を持ち上げたが、間近で燎琉と眼差しを交わし合うと、なぜか、再びゆっくりと目を瞑った。


 血の色の透けるような瞼、長い睫。


 かたちのよい眉、涼やかな目許。


 白い頬、そして、薄っすらと紅をいたかのようなくちびる。


 ほう、と、瓔偲が息をつく。


 その刹那、もはや衝動をこらえきれなくなった燎琉は、瓔偲のちいさな頭を掻き抱くようにしながら、彼に口づけていた。


「ん……」


 瓔偲が鼻にかかった甘い声をあげる。一度くちびるを離し、瞼を持ち上げ、彼我ひがの吐息の混ざる距離で、熱く見詰め合った。


 そしてすぐに、再び相手に接吻する。


 ちぅ、ちゅう、と、やさしくむように燎琉は瓔偲のくちびるをむさぼった。


 夢中になる。


 幾度も幾度も繰り返し口づけをする。


 いつしか燎琉は身体を倒し、瓔偲を榻に押し伏せていた。接吻はほどかぬまま、細いからだをまさぐるようにしてさえいる。


「ぁ……ん、ぅ、殿、下……っ」


 はあ、と、瓔偲の吐き出す呼吸いきは熱く乱れかけていた。百合の清冽な香りがしている。


 彼と交わって、やわいうなじに咬みつきたい――……あのときしたみたいに、もう一度。


 発情にも似た熱に浮かされるように、燎琉が瓔偲の深衣きものの帯に手を掛けた時だった。どんどんどんどん、と、遠くに、激しく表門を叩くらしき音が聞こえてくる。


 燎琉ははっと身を起こした。


 瓔偲も我に返ったのか、いまの衝動と行為にひどく戸惑うかのように、顔を伏せて我が身を抱いた。


「燎琉、いるか?」


 聴こえる誰何すいかの声は聞き覚えがあるものだ。


「叔父上……!」


 燎琉は立ち上がると、折扉とびらを開けて、突然来訪した叔父を迎えるために院子なかにわへと下り、華垂門かすいもんへと向かった。


 前触れもない皇弟おうていの訪問に、椒桂しょうけい殿でんにわかに慌ただしくなっている。突然殿舎の表門を叩いた鵬明ほうめいを、皓義こうぎが門扉を開けて迎え入れた。その叔父を、燎琉りょうりゅうは門のところで待ち受ける。


「叔父上、いったい何事です?」


「話がある。瓔偲はいるか? あれも呼べ。――いや、やはり、まずはお前だけでいいか……」


 珍しく迷うふうに鵬明がつぶやくところへ、ちょうどひがし廂房しょうぼうから瓔偲が姿を見せた。


「鵬明殿下」


 呼びかけられ、正堂おもやへ向かって院子なかにわをつかつかと足早に横切っていた鵬明は、ふと、足を止める。そこから瓔偲のいるほうへと視線を投げた。


「瓔偲……息災か?」


「はい。ですが、まだお別れして数日です。そうそう変わるはずもありません」


「そう……そうだな。だが、お前にとっては、いろいろあった」


 ありすぎたくらいだ、と、鵬明は眉根を寄せて瓔偲を見た。


「この際だ、お前も来い。お前たちに報告しておきたいことがある」


 そう言うと、鵬明は苦々しい顔つきでで深い息を吐いた。


煌泰おうたいと、そう清歌せいかの婚約が内定した」


 正房いまに足を踏み入れると、燎琉と瓔偲を前に、鵬明は端的にそう言った。


 燎琉は目を見開く。


 では、昼間に南門のところで行き合ったとき、清歌はその件で宮中へ向かうところだったというわけだ。数日前までは燎琉との婚約も間近と思われていた少女が、いまは俄かに、別の皇子と婚約することになったという。


 あまりにも早い展開に、すぐには言葉も出てこなかった。


 朱煌泰は燎琉のすぐ上の兄、ばん貴妃きひの産んだ、現皇帝の第三皇子だ。万貴妃の兄は六部を束ねる尚書しょうしょれい、すなわち国府における最も強大な権力者のひとりだった。


 煌泰と清歌との婚約内定とは、すなわち第三皇子・煌泰を擁する万家と、こちらも高官の家柄である宋家とが、結びついたということだ。


 第三皇子・朱煌泰の背後うしろに、万家とともに、宋家までもがついた。燎琉が瓔偲との一件で皇嗣から一歩遠ざかったことを考えれば、これによって、逆に煌泰は一気に皇太子位に最も近い存在に躍り出たということになる。


「先に渡した首輪くびかざりについては調べたか?」


 斜めにこちらに視線をれつつ、鵬明が燎琉に言う。


 そう言うからにはではやはり、叔父は意図してあの首輪を自分たちの手許へ寄越したということだった。となれば、鵬明もまた、燎琉と瓔偲とのことは何者かの企みであると疑っていたのだろう。


「誰かが敢えて留め金に細工をしていたようです。瓔偲が吏部へ預けたものが、そこから手入れを請け負う店舗みせへは届けられていなかった」


 核心だけを短く伝えると、そうか、と、鵬明は応じて、何か思案するように顎に手を当てた。しばらくうつむいたあと、叔父は燎琉をじっと見る。


「薬のほうはどうだ?」


 重ねて訊ねられ、それについてもわかっていたのか、と、燎琉は叔父の深慮に内心で舌を巻いた。

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