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4-6 抑制剤の真実

「お戻りなさいませ……って、殿下、濡れてらっしゃるじゃないですか。瓔偲えいしさまも」


 二人連れだって、城壁内、そこから国府を抜けて更に城墻じょうしょうの内にある楽楼らくろうぐうまで戻った。椒桂しょうけい殿に帰り着くと、迎えに出てきた皓義こうぎはまず目をみはって、そう、頓狂とんきょうな声をあげる。


「すぐに湯殿の用意をさせますから、とりあえず、おふたりともとっととお着替えになってください」


「お前、先に湯を使え」


 燎琉が言うと、瓔偲は軽く首をふる。


「わたしは大丈夫です。殿下がかばってくださいましたから……殿下こそ、お先に」


 互いに譲り合うこちらを前に、皓義が苦笑した。


「ああ、それから、殿下……しゅう太医たいいがいらしてます。客房にお通ししておりますから、後で対面を」


 しゅう華柁かだが訪ねて来ているという。瓔偲の薬のことで何か新たに判明したことがあったのかもしれない、と、そう思いながら、わかった、と、燎琉りょうりゅうは従者の言葉に短く応じた。


 とりあえず、着替えのためにいったん正房おもやへと戻る。瓔偲は己に与えられたひがし廂房しょうぼうへと入っていった。


 燎琉はすっかり濡れてしまった長袍きものを脱ぎ、したぎも取り替えてから、臙脂えんじ色の深衣しんいまとう。帯を締め、乾いた布でまだ水滴を滴らせる髪を軽くぬぐうと、すぐに扉とびらを引き開けて、院子なかにわへと続くきざはしを下りた。


 客房は、華垂門かすいもんを越えてすぐのところ、東西の廂房に付属するかたちで並ぶ房間へやだ。そのうち、いまは東の客房の扉が開け放たれていた。周老太医はおそらくその房で燎琉を待っているのだろう。


「じぃ、何かわかったのか?」


 燎琉は客房へと足を踏み入れた。


 だがすぐに、客房内にいるのが周華柁だけではないのに気付き、わずかに息を呑む。


「皇子殿下にご挨拶を」


 周太医とともに卓子の前の椅子に掛けていた青年は、燎琉が姿を見せると即座に立ち上がって、拱手の礼を取ってみせる。まだ年若いが、白の長袍を纏うところを見るに、どうやら医師くすしであるらしい。ひどく緊張した、蒼白な顔をしていた。


 かしこまる青年に、楽にしていい、と、燎琉は手を振って合図する。


「この者は?」


 老太医に訊ねると、周華柁はひとつ重たい息をいた。


吏部りぶの医局に勤める医師で、そん晁文ちょうぶんと申す者にございます。――火急のことにて、わしの助手ということにして、ここまで伴わせていただきました。どうぞご容赦を」


「それはいい。――だが、火急とは?」


 燎琉は怪訝に思って周太医の顔をじっと見る。


 太医は燎琉の視線を受け、いかにも難しい顔をすると、それが、と、口を切った。


「瓔偲さまが服用されていた発情を抑制する薬、その処方を問い合わせるのに、さっそく医局へ参りましたのです。すると、この者が……」


 そこで周太医は、孫晁文のほうへと目をやった。


 周華柁の視線を受けた途端、孫青年は、いきなりその場にひざまずき、そのままがばりと平伏する。


「申し訳ございません……!」


 震える声でそう言った。


 が、詫びられたところで何のことやらわからずに、燎琉は面食らうしかない。いったい何事だ、と、うずくまるように頭を下げ続ける青年と、それから己付きの太医とを交互に見た。


「上から命ぜられて、己が発情抑制効果のない薬を調合した、と」


 答えたのは周太医だ。


「では、瓔偲の薬は……」


「左様にございます。どうやらこの者が……ただし、それが誰に、何のために処方されるかは知らされなかった、と」


 老太医が説明すると、孫晁文はまた、申し訳ございません、と、身を震わせながらちいさな声で詫びた。


 性の者にとって発情を抑制する薬は、日常生活をつつがなく送るために欠かすことの出来ないものである。国府に勤める医師くすしであるならばそのことは十二分に心得ていただろう。それにも関わらず、この者は本来の薬効が望めない、いわば贋薬を調合したわけだ。


「いったいなぜそんなことを……良心はとがめなかったのか!」


 燎琉はてのひらを握りしめ、目を怒らせた。


「お前のその薬の所為せいで、ひとりの官吏の人生が理不尽にゆがめられたんだぞ……!」


 低い声で、うなるように言う。


「殿下のお怒りはごもっともです」


 孫晁文は縮こまるように平伏し、震える声で言った。


「殿下……殿下。どうぞお静まりを」


「だが、じぃ……!」


「上の命に逆らえなかったとはいえ、この者の良心は、ちゃんと痛んでおったのです。で、あればこそ、儂が医局へ問い合わせをしましたときに、儂に己のしたことを告げ、ここへお詫びにも参じておりまする。どうぞ、この周じぃに免じて、ご寛恕かんじょを」


 生まれたときからのつきあいの、祖父にも等しい太医にそう請われては、燎琉とていたずらに怒りをぶつけ続けることも出来ない。ふう、と、深く大きな息をついて、なんとか己をしずめようと努めた。


「……わかった。――よく、話してくれた。今日のところは帰るがいい」


 燎琉が絞り出すように言うと、周華柁は、ほ、と、安堵の息を吐く。


「下がりなさい。殿下に感謝を。それから、このことは、決して他言なきように」


 周太医にそう言われ、深く頭を下げた後、孫青年は客房を辞して行った。


 燎琉は房間へやの隅に立つと、眉をひそめて額を押さえた。


「吏部……」


 苦々しく、そうつぶやく。


 にせの薬を処方したのが吏部の医局であれば、また、首輪くびかざりの件も吏部が絡んでいる。それはおそらく、瓔偲が吏部に預けた後に細工を施され、吏部から瓔偲の手元に届いたときには、すでに癸性を守るものとしては役立たぬ状態にされていたのだ。


 ふたつが重なればもはや、今度のことは、吏部が関与するものとしか考えられない。


「殿下、いまの吏部の尚書ちょうかんと申せば……」


 燎琉のこぼした呟きを聞き咎めた周華柁は、けれどもその名を言うのを躊躇した。


 かわりに、眉間に皺を寄せ、燎琉がそれを口にする。


そう英鐘えいしょうだ」


 それは宋家の現当主であり――……また、先程行き合った宋清歌せいかの父の名でもあった。


「まだ、確実にそうと決まったわけではないが」


 もちろん、首謀者は吏部に属する他の誰かだという可能性だってあるわけだ。


 しかし、と、燎琉は虚空を睨む。いまや胸の中に、奇妙に引っかかり、どうしても抜けぬ棘のような疑惑が生じていた。





 周華柁は最後に、瓔偲のために新たに調合した発情抑制の薬を燎琉に託し、そのまま椒桂殿を辞していった。我が太医を殿舎から返した後、燎琉は客房から院子なかにわへと出た。


 真っ直ぐに正房おもやへ戻る気にはなれない。それに、とりあえず周太医から預かった薬を瓔偲に手渡さねば、と、そうも思うのに、それでもなんとなく、東廂房を訪ねていくのが躊躇ためらわれた。


 先程聴いたことを瓔偲に何と告げようか、と、おもう。


 おそらく瓔偲は何を聴いても取り乱したりはしないのだろう。そうですか、と、事実を静かに受け止めて、ただただそんなふうに応じるような気がしていた。


 けれども、燎琉にはそれがたまらないのだ。これまで我が身にふりかかる理不尽を黙って呑み込んできた瓔偲の在り方が、つらい。


 様々なことを黙って諦めることにもはや慣れてしまっている瓔偲が、今度もまたその微笑の下に、たとえば憤りとか、恨み辛みとか、それらを抑え込んでしまうのなら、それは物凄くせつないことのように思われた。


 燎琉はしばらく院子なかにわ桂花木きんもくせいの下でうろうろと逡巡しゅんじゅんする。


 だが、いつまでもそこでそうしているわけにもいかなかったから、やがて意を決して、瓔偲のいる堂宇へ続くきざはしに足をかけた。


 扉の前で、すぅ、と、ひとつ息を吸い、そしてはく。


「周じぃから薬を預かった。入るぞ」


 そう一声かけて、扉を押した。


 けれども、房内にいる瓔偲が見えた途端、燎琉は息を呑んだ。


「なにを、してるんだ」


 目を瞠り、思わずそう言っている。


 着替え終えたらしい瓔偲はながいすに掛けていたが、その手には、燎琉が雨からかばうのに彼にかずけた燎琉の短背子うわぎがあった。


 瓔偲は、丁寧に畳んだその褙子きものを抱くようにして顔をうずめ、なついていたのだ。


「お前……」


 燎琉は呻くようにつぶやいていた。

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