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4-1 林珠寶店へ

「お忍び歩き、ずいぶんと慣れていらっしゃるんですね」


 三省さんしょう六部りくぶの各官府かんふが立ち並び、国のまつりごとの場となっている国府こくふは、堅牢な城壁によってまちとは隔てられている。出入りのためには唯一、南側にある門を通るが、通行証を見せてそこをふたりで越えたところで、瓔偲えいしはごく潜めた声で、燎琉りょうりゅうにそう言った。


「叔父上がたまに連れ出してくれるから」


 燎琉が瓔偲にとっても上司である鵬明ほうめいののこと口に出すと、相手は、なるほど、と、やや苦笑まじりのほのかな微笑を頬に浮かべた。


 工部こうぶの仕事は今日は休みである。そこで燎琉は、先日の約束の通り、この日は瓔偲を連れ出してりん珠寶しゅほう店を訪ねてみることにしたわけだった。


 まちを南北に貫く大経おおどおりを、そのまましばらく南進する。ふたりともに徒歩だった。恰好もあいって、気儘な都城まち歩きに見えることだろう。


 いま燎琉たちがまとっているのは、長袍ちょうほうと呼ばれる衣服だった。


 皇族や、あるいは士大夫を排出するような所謂いわゆる名家ならば、普段は深衣しんい――袖も裾も長くたっぷりと布を使うような着物――を着ることが多い。それに比べて長袍は、窄袖でやや裾も短く、動きやすさを重視した衣だった。士卒や使用人などの常服であるほか、皓義こうぎのような武門の者は好んでこれをまとう。また、一般にも広く着られる衣装ともいえた。


 すなわち、この恰好かっこうならば城中まちなかを歩いてもさほど目立ち過ぎるといったことがない。馬車を使っても良かったのだが、椒桂しょうけい殿でんの馬車を店舗みせに横付けするのでは周囲の耳目も気になるので、結局、目立たぬ徒歩での道行きを選択したのだった。


 燎琉が護衛のひとりも付けずに気安く国府の外へ出るのに瓔偲は驚いたようだが――仮にも現帝の皇子である――ぞろぞろと護衛など引き連れていたのではむしろ悪目立ちして狙われる、とは、燎琉を時おり城外へ連れ出すことのある鵬明の教えである。燎琉は叔父の教えに忠実にならったというわけだった。


 一応、腕にはそれなりに覚えもある。この点は、武門の名家出身である皓義を相手に、幼い頃から鍛錬に励んできた賜物だ。いざとなったら――太平を謳歌するとう国のことだから、滅多とないとは思うが――我が身と瓔偲のひとりくらいなら守れるだろうという自負もあった。


「ここか」


 大経おおどおりをしばらく南へ下ったところ、城門からさほど離れていない一角に、その店舗みせはあった。


 立派な店構えの大店おおたなだ。ここが今日の目的地、りん珠寶しゅほう店だった。


 成人して間もない燎琉は、皇族であるとはいえ、一部の高官や、直接関わりのある国官などを除いては、まだほとんど顔などを知られてはいない。その点、忍び歩きには都合がよいわけだが、いままさに訪ねようとしている林珠寶店も――国府とも取り引きがあり、皇族の御用達でもある老舗であるとはいえ――すくなくとも、店舗に出ている人間が燎琉を見知っている可能性は限りなく低かった。


 店の前で瓔偲と目を見交わし、燎琉は店内へと足を踏み入れた。


 店にはいま他の客の姿はなかったが、連れだって訪ねた燎琉と瓔偲の姿を見とめると、店の者が接客のために近づいてくる。


「これはこれは、公子わかぎみがた」


 ごくごく普通の長袍姿とはいえ、それでも、仕立ての悪くない着物をまとているこちらを、どうも店員はそれなりの家柄の出であると判断したのだろう。にこにこと愛想良く語りかけてきた。


「何かお探しでしょうか」


 言われて燎琉は、すこし迷った。ここでいきなり本題を切り出していいものだろうか、と、思案する。


かんざしなどを……結納ゆいのう間近のお嬢さまへの贈り物をご自分でお選びになりたくて、出向いていらしたのですよね、燎琉さま」


 一拍沈黙した燎琉に、そう助け船を出したのは瓔偲だ。


 燎琉、と、ふいに名を口にされて、こちらはそれにどきりとした。だがこれは、殿下、と、ここでその呼称を使うわけにもいかず、成り行き上、仕方なくのことだろう。


「あ、ああ」


 妙なことに動揺してしまった己の気持ちを努めて抑えながら、燎琉はうなずいた。瓔偲の意図は、何かひとつくらい買い求めたほうが話もしやすくなる、と、たぶんそういうことなのだろう。


「簪を、いくつか見せてもらえるだろうか」


 燎琉がそう言葉を継ぐと、店員はにこやかに笑って応じた。


「すぐにめぼしいものをご用意いたしましょう。さ、公子わかぎみさま、どうぞ奥へ」


 促され、店の奥へと案内される。さすがに細工物などを商う店舗みせだけのことはあるというべきか、調度類も、瀟洒しょうしゃな彫りのある趣味のよいものがそろえられていた。


 勧められて燎琉は椅子に腰掛ける。瓔偲はといえば、まるでこちらの従者よろしく、燎琉のかたわらに静かに控えた。


 やがて簪を収めたらしい箱を側の者に持たせて、どうも店主と思わしき男が姿を見せる。こちらを、事の次第によっては上客になる、と、そう判断したのかもしれなかった。


 燎琉が座る椅子の前に据えられた卓に、男は持たせてきた箱を置かせた。そして、満面ににこやかな笑みを浮かべ、箱の中身を指し示す。


「こちらの簪などはいかがでございましょうか。どれもうちの匠工しょくにんが丁寧に仕上げた一品ばかりにございます。贈られたお相手の方にもきっとお喜びいただける物と、自信を持っておすすめさせていただきます」


 言うだけあって、箱の中に並べられた簪はどれも華やかできらきらしい、いかにも上等な品ばかりだった。


 燎琉はしばらくそれを眺め、迷いながら情人こいびとへの贈り物を真摯しんしに選んでいるふりをする。が、何を基準にどんなものを選べばいいのか、実は、さっぱりわかってはいなかった。


 これでも皇族の一員だから、優れた細工物を見る機会には恵まれてきた。だから、自然と、見る目自体はそれなりに育ってはいると思う。


 だが、これまでのところ燎琉は、誰かのために簪を選ぶような機会を持ったことがなかったのだ。


 宋家令嬢のそう清歌せいかとは、時おり、逢って話をする仲ではあった。とはいえ、それらはすべて母の整えた手筈てはずに従ってのことでしかなかったのだ。


 庭園を散歩し、仕事や趣味について軽く会話をする程度のことはしたが、まだまだ、ふたり愛を語り合うような、逢瀬と呼べるほどの段階に進んではいなかった。互いに情人こいびとと呼べるほど親密な関係にまでは至っていなかったのだ。


 当然、贈り物など、機会もない。


 宋清歌との関係がもしもあのまま順調に進んでいたならば、あるいは、いつかこうして彼女に装飾品を選ぶ機会を持ったりもしたのだろうか。たとえば彼女と並んでこの店を訪れて、と、そんなことを想像してみても、燎琉の胸には奇妙な感じが湧くばかりだった。


 むしろ、と、燎琉はふと、いま実際に隣に立つ瓔偲の端正な立ち姿に目をやった。


 瓔偲の黒髪は、烏羽玉うばたまの夜を糸に紡いだように、艶やでうつくしい。その髪の一部を彼はもとどりに結って、残りをさらりと背に流していた。


 髻にしているのは、黒檀だろうか、木製の簡素な簪だ。


「――……もうすこし、落ち着いたものはないか。翡翠ひすいとかの」


 気がつくと燎琉はそんなことを口にしていた。


 たとえばとろけるような色味の翡翠の簪などは瓔偲の黒髪に似合うだろう、と、隣に立つ相手を見てふいにそんなことを考えてしまった結果だった。


「燎琉さま……?」


 少女への贈り物にしては、だが、それではあまりに落ち着き過ぎている――有り体に言えば地味、あるいはしぶ過ぎる選択だ――とでも思ったのか、瓔偲がいぶかるような声をあげる。いったいどうしたのだ、と、視線で問われて、燎琉はようやく己の妙な思考回路にはっとなった。


 が、すでに口に出してしまったものは仕方がない。


「いや……お前にもひとつどうかと思って」


 むっと唇を引き結び、眉を寄せながらぼそりと言った。


「え?」


 燎琉の言葉に瓔偲は瞠目する。


「いいだろう、べつに!」


 相手の反応に、燎琉はそっぽを向いた。


 どうせあがなうなら、実際に使い手を想定したもののほうが選びやすい。だからだ、と、心中につぶやいたそんな文句は、まるで自分自身の心に言い訳でもするかのようなそれだった。


 燎琉は眉をしかめたままで、気まずさから、しばらくは瓔偲のほうへと向き直ることが出来なかった。

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