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3-4 癸性の境遇

かく瓔偲えいしが辞めたって?」


 工部こうぶでの己の職務を終えた燎琉りょうりゅう戸部こぶ官府やくしょを訪ったとき、ふと耳についたのは、誰かの発したそんなささやきだった。


 瓔偲の名が耳に入り、燎琉は反射的に立ち止まる。


 そのまま、図らずも、聞き耳を立てるふうになってしまったが、どうも話をしているのは瓔偲と同じ戸部の書吏しょりの者たちのようだった。


「あいつ、性だろ? もともとおとなしく家にいりゃあよかったのに」


 そもそも国府へ官吏として出仕しているのが間違っている、と、そんなふうに言う男の声が聴こえた。


「そうそう」


 笑いながら同意する声が続く。


「癸性なら癸性らしく、男をくわえ込んで、はらんで、産んでって、そうしてりゃあいいんだ。それがお似合いだろうに」


「いまからじゃ、年齢とし的には完全におくれだけどな。まあ、顔だけは綺麗だったし、囲いたがる好き者の一人や二人はいるんじゃないか?」


 はははは、と、男たちは下卑た笑い声をあげた。


鵬明ほうめい殿下に気に入られてたからって、調子に乗りやがって。鼻持ちならなかったんだよな」


「殿下のことも誘惑して取り入ったんじゃないのか。発情期にさ」


「なんせ癸性だからな。ありそうなことだ」


 まだ続いた言葉に、燎琉は呆然と立ち尽くした。


 まさか瓔偲が同僚からこんなふうに心ない言葉をかれているとは信じられず、耳を疑わずにはいられない。それと同時に、聴くに堪えない話を笑いながらしている男たちに、たまらない不愉快と、抑え難い怒りとが募ってきた。


 自然とくちびるを噛み、きつくてのひらを握り締めている。


 眉をひそめ、ぎりり、と、奥歯を噛み締めた。


 瓔偲はたしかに、昨日、癸性の己が国官として勤めることを良く思わない者もいると言っていた。が、癸性の官吏登用を決めたのは、ほかならぬ、皇帝なのである。先帝の時代まで漫然と続いていた癸性の者へのいわれなき扱いについては、すべてこれを撤廃すべし、と、そのために国が定めた方向性に、瓔偲は従っただけのことだった。


 不当に何かを得たわけでもないのに、この言われようは、いったい何だ。


 込み上げるいきどおりのままに、場に乗り込んで文句を言ってやろう、と、足を踏み出しかけたときだった。燎琉の肩を、とん、と、後ろから軽く掴んだ者がある。燎琉ははっとして振り返った。


「叔父上」


 そこにいたのはしゅ鵬明ほうめいだ。彼は珍しく、静かな、けれども厳しい表情をしている。


 鵬明は、いまにも書吏しょりたちのいるへやへと踏み込もうとしていた燎琉を無言の視線だけで一歩下がらせる。そして、そのまま、自分のほうが先に立って房内へと入っていった。


 燎琉は叔父の背に続く形となる。


 鵬明が戸を開けた瞬間、瓔偲を口汚なくののしっていた男たちはしんと黙った。鵬明は彼らを、冷たく鋭い視線でみつけた。


「私はこれでも、職務に関しては、公正な男のつもりでな。部下は能力に応じて使っておる。癸性だからと退しりぞけもせぬし、逆に、癸性だからと贔屓もせぬ」


 敢えてのことなのだろう、低くうなるような声で鵬明はきっぱりと言った。


 鵬明の様子に気圧けおされるらしく、男たちは黙りこくったままだ。おどおどとたじろぐ者さえいる。


「瓔偲を重宝していたのは、あれがここの誰よりも優秀だったからだがな。誠に残念なことに、事情あって、あれは職を退かざるを得なくなった。お前たちにはあれのいなくなった穴を埋めてもらわねばならぬが、さて、それが出来る者は果たしているかな。――無駄口を叩いていないで、さっさと仕事をしないか」


 最後に叔父は、どすの利いた低い声でぴしりと言った。


「さて、我が甥御おいごどの……うちの者のみっともないところを見せたな。悪い」


 部下のみながそれぞれに職務へ戻ったところで、鵬明は燎琉を振り返った。眉を寄せて、苦々しい表情を浮かべている。


「叔父上……瓔偲はいつも、あんなことを言われていたのですか」


 我が耳で聞いても信じられず、燎琉は叔父に訊ねた。


「ああまであからさまに、表立っては言わんさ。あいつのいる前ではな。だが、陰口などしょっちゅうだったろうよ」


 そう言って、鵬明は溜め息をつく。


「あるいは、陰口をよそおって、故意に聴こえるように言う者くらいはあったかもしれんが。――まあ、瓔偲は莫迦ばかじゃないんだ。たとえ耳には入らずとも、自分を取り囲む空気の棘々とげとげしさなど、百も承知だったろう」


 鵬明の言葉に、ああそうか、と、燎琉ははたと気がついた。


 だから今朝、燎琉が戸部を訪ねると口にしたとき、瓔偲はなんとも複雑そうな表情をのぞかせていたのかもしれない。戸部を訪ねれば、燎琉が、瓔偲に関する――聞いて気持ちのよいものではない――風聞を、あるいは耳にするだろうと察していたのだ。


 燎琉は腹の底で、重たい憤りがぐるりと蜷局とぐろを巻いたのを感じた。


「なぜ……!」


 きつく拳を握り、くちびるを噛む。


「なぜって」


 鵬明は深い息を吐き、肩を竦めた。


「これが世間の普通だぞ、燎琉。だからこそ兄上……陛下自らが、癸性の者の地位向上を、殊更うたわれるんじゃないか」


 そうしなければこの状況が――癸性を有する、と、ただそれだけで偏見の目に曝され、おとしめられ、ないがしろにされて、世の中でまともに活躍させてもらえないという状態が――変わらないからだ、と、鵬明は言った。


「が、兄上の場合は、父上……亡くなった偉大なる先帝への反発という面が大きいし、どこまで本気の政策かはわからんがな。そういう意味では、まだまだ道は遠い」


 含みのある言葉を発し、鵬明は嘆息を漏らした。


 それから叔父は、ちら、と、燎琉に一瞥いちべつをくれると、回廊のほうへと顎をしゃくる。


「ついて来い。ついでだ、瓔偲の宿舎にあいつの荷物をまとめさせてあるから、持って行け。行李こうりひとつ分だから、お前ひとりで持てるだろう。錠を開ける」


 矢継ぎ早に言うが早いか、鵬明は燎琉の前に立って、すたすたと歩きだした。

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