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2-7 肚に触れる

「その……わたしはまだ、殿下のきさきではございません」


 瓔偲えいししゅう華柁かだに向かって言ったのは、そんなことだった。


「妃殿下だなどと……わたしのような者がそう呼ばれては、大切な殿下の御名に傷がつくかもしれません。それに、殿下のお気にもさわるでしょうから、どうぞ、ただ瓔偲とだけ」


 妃の呼称をやめてほしい、と、瓔偲はしずかに微笑して請う。


「べつに……!」


 気に障ったりなんかしない、と、燎琉は言いかけたが、けれども、妃の呼称で構わない、と、そう言ってしまうのも躊躇ちゅうちょされるものがあった。それで、結局は、黙り込むしかない。


 むすっと押し黙ったこちらを、周太医たいいはなぜか目を細めて見る。それから、ふう、と、息をはいた。


「周じぃ、なんだその溜め息は? どういう意味だ?」


 燎琉は老太医をにらむように見たが、いえいえ、と、のんびりと答えた相手からは、まるで我が子、我が孫を見るような視線を向けられるだけだった。


 そこで老太医は瓔偲のほうへ向きなおる。


「さてさて。せっかくここまで出向きましたからには、殿下、ついでと申してはなんですが、瓔偲さまのお身体をせていただいてもよろしいですかな」


 場の何とも言えぬ空気を読んでのことだったのか、周華柁はころりと話を変えて、そんなことを申し出てきた。その提案について、殊更ことさら、燎琉に拒む理由などはない。


「好きにしろ」


 肩を竦め、そう言ってやった。


「え?」


 逆に驚いた顔をしたのは瓔偲だ。だが周太医は、瓔偲に向かって笑んでみせる。その笑顔は穏やかでありつつも、有無を言わせぬ迫力があった。


「先程も申しましたが、今後、わしめが定期的に瓔偲さまのお身体を診察させていたくことになりますからな。つがいを得られたばかりの性は、お心にもお身体にも、いろいろと大きな変化があるもの。ご不調にもおちいりやすい時期にございます。――と、いうわけで。とりあえず、脈だけでも、少々診させていただけますかな」


 さあそこに横になって、と、周太医が示したのは窓辺のながいすだった。促された瓔偲は、戸惑いつつも、言われた通りにそこへ仰向けに寝そべる。


 周太医は瓔偲の腕を取り、袖をめくって、透けるように白い腕をあらわにした。そのまま手首のあたりに自分の三本の指を当てて、しばらく目を閉じ、脈を聴いている。


「ふむ、ふむ。落ち着いておられますな」


 やがて目を開けるとそう言って、問題ないようです、と、ひとつ頷いた。


「いまは、発情を抑えるたぐいの薬は、飲んでおられますかな?」


「はい。鵬明ほうめい殿下付きの太医が処方してくださいましたので、それを朝夕、日に二度」


「その薬の残りは? まだありますかな?」


「念のためにと、あとしばらくの分までは、いただいております」


「では、その後のものは、早々に儂のほうで処方いたしましょう。いったんは吏部の医局に問い合わせて、これまで通りの薬を出しましょうかの。ただ、つがいを得て、今後はお身体に変化があるやもしれませぬゆえ……お身体のご様子を診ながら、瓔偲さまに合う処方を、おいおい工夫してまいりましょうか」


 周太医は穏やかな口調で瓔偲に語りかけた。瓔偲は目礼しつつ、ありがとうございます、と、口にした。


「そのほか、いまお飲みになっている薬などはございますか?」


「それは、その……」


 周華佗からの問いに、それまではきはきと応答していた瓔偲が、やや言いよどむ。ちらり、と、彼が窺い見たのは、なぜか燎琉のほうだった。


 なんだろう、と、思ううちに、相手は意を決したのか、周華柁のほうへと視線を戻してしまう。


「懐胎を、防ぐための薬を……」


 瓔偲が口にしたのは、そんな言葉だった。


 燎琉ははっとする。


「これも、鵬明殿下付きの太医の方から七日分を処方されて……今朝、最後のものを飲み終えました。周先生、あの……わたしには、懐妊の兆しがあったりは、しないでしょうか?」


 はらんではいないか、と、そんな瓔偲の言葉に、燎琉はますます息を呑んだ。


 そうだ、と、おもう。燎琉と瓔偲とは、あの日、互いに発情状態での交わりを持ったのだ。そのときに瓔偲が懐妊した可能性は、十分に考え得るものだった――……どうしていままで思い至らなかったのだろうか。甲癸こうきの発情時の交合における懐胎の確率は、ほぼ十割とさえ言われているのに。


 理性を飛ばして相手をき抱いていた瞬間が、ふいに脳裡のうりに思い起こされる。


 意識は最初からほとんど朦朧もうろうとしていたから、はっきりとは覚えていない。けれども燎琉はあのとき、たしかに瓔偲と繋がって、そのはらの中に吐精したのだ。奥を何度も突き上げて、腰を押し付けるようにしながら、たっぷりと彼の中に気をき尽くした。


 曖昧あいまいな記憶の糸を手繰たぐった刹那、ふわ、と、あまやかに白百合の香がただよったような気がした。


 それに意識を囚われるように、燎琉は、ふら、と、ながいすのほうへと近寄っている。そこに横になる瓔偲のほうへ歩み寄ると、恍惚うっとりと我を忘れたままで、その場にひざまいた。


 気づけば、相手のほうへと自然と手指を伸べている。


「――……おほん、うぉっほんっ!」


 そのとき、瓔偲の脈を診ていた周華佗が、いかにも大袈裟おおげさ咳払せきばらいをした。それで燎琉ははっと我に返る。


「殿下。残念ながら、そこにはまだ、どなたも宿ってはおられぬようですぞ」


 老太医に言われ、それでようやく、燎琉は己が横たわる瓔偲の腹のあたりを無意識に手で撫でさすっていたことに気が付いた。


 弾かれたように手を離し、その場から飛び退くようにしている。その慌て振りを見て、周太医はちらりと苦笑した。


 それから、再び瓔偲のほうへ視線を落とすと、あらためて、ゆるゆると首を振った。これが先の瓔偲の問いへのいらえのようだ。


「薬が効いたのでしょう。まだ確かとまではいえませぬが、おそらく、此度こたびのご懐妊はないものと」


 それを聴き、瓔偲は、ほ、と、息を吐く。そのままゆっくりと身を起こすと、己の所業に気まずく黙り込んだままでその場に立ち尽くしている燎琉を見上げた。


「殿下」


「……なんだ」


「不慮のこととはいえ、勿体なくも殿下のお種をこのはらにいただきながら、此度こたびは勝手をいたしました。申し訳ありません」


 瓔偲は静かに口にして目を伏せがちにする。種を肚に、と、その発言に、燎琉はかっと頬を染めた。


 瓔偲の肚――……先程この手が触れた薄い肚の中に、自分はあのとき、深々と這入はいり込んでいた。そして、そこはもはや、終生、つがいである燎琉の熱だけを受けとめる場所となっている。


 瓔偲の子宮はらは、もう、燎琉の種を宿すためだけのもの――……たとえ燎琉が瓔偲との婚姻関係を結ぶことがなくとも、つがいとなった以上、その事実が消えることは、生涯にわたってありえないのだ。


 そんなことを考えながら、燎琉は瓔偲の瞼を縁どる長いまつげが、その白いはだかげを落とす様を、息を呑んで見詰めていた。


 こくり、と、喉が鳴る。


 けれども、今回はまた己が百合の香に意識を奪われそうになっていることに気が付いて、努めて、相手から顔を背けた。


「……お前が謝ることじゃない」


 仕方のないことだろう、と、ぶっきらぼうにそう言う。


「はい」


 そうちいさく答えて微笑んだ瓔偲が、そのままじっとこちらを見ているふうなのが、燎琉にはどうにも居たたまれなかった。

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