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2-5 見え隠れする陰謀

 燎琉りょうりゅう皓義こうぎに命じて呼ぶようにいったのは、燎琉付きの太医たいいだった。


 太医とは、皇家専属の医師くすしをいう。いつも燎琉をているのは、しゅう華柁かだという名の老太医だった。


 周太医を待つ間、燎琉は皓義が運んでくれた茶をきっしながら、瓔偲えいしと向かい合っている。


鵬明ほうめい叔父には、この件は話したのか?」


 燎琉が訊ねると、いえ、と、瓔偲は首を横に振った。


「なぜだ?」


 燎琉には、瓔偲の答えが意外だった。


 鵬明は瓔偲にとっては直属の上司であったのだ。しかも、七日前の事故――いまやそれは、事件なのかもしれないが――ののち、今日こんにちまで、瓔偲の身を預かっていたのも鵬明だった。


 だから叔父は、瓔偲がまず真っ先に頼り、話をしていてもおかしくはない相手ではないのか。だが瓔偲は、燎琉の問いに対して、困ったように目を伏せて黙り込んだ。


「どうした?」


 そう訊ねても、まだしばらくは、ただ瞬きをするばかりで口をつぐんだままでいた。


「なにかあるのか……叔父上に」


 鵬明に疑うべき何かがあるのだろうか、と、瓔偲の不自然な沈黙にそう勘繰かんぐると、相手ははじかれたように顔を上げる。


「いえ……! ただの……可能性に過ぎません」


 慌てて否定しつつも、ようやくそんなふうに口を開いた。


「この件が、単にわたしへの……性の者への嫌がらせだというのなら、まだ、よいのです。国家の大事というわけでもございません」


「いや、たとえお前への嫌がらせだとしても、それは全然よくなはいだろうが。だって、お前の人生を歪めるようなことだ。悪戯いたずらにしては過ぎたことだし、許されることじゃない」


 燎琉が不快に眉をしかめると、瓔偲はまたどこか驚いたように目をまたたいた。


「殿下は……公正な方でいらっしゃいますね」


 それから、ふ、と、口許をゆるめると、燎琉にはよくわからない、そんなことを口にした。


「別に普通だ」


「……そうでしょうか?」


 どこか含みのある言い方で口にすると、相手は眉尻を下げて、ふう、と、嘆息する。けれどもそれ以上、その話題について語ることはせず、瓔偲は気を取り直したように燎琉を真っ直ぐに見た。


「殿下」


「なんだ」


「もしもこれが、わたしではなく、殿下を標的にしたたくらみだったとしたら」


「俺?」


 どういうことだ、と、燎琉も厳しい表情で瓔偲を見返した。


「標的が殿下だったと仮定すれば、これは、皇位にからむ陰謀なのかもしれません。殿下は現皇帝陛下の皇子、しかも、皇后を御母上とされる、唯一の皇子でございます。すなわち、立太子こそまだでも、実質は皇太子に最も近い位置におられたとも言える。――それが、此度こたびのことで……わたしとの婚姻で、大きく、お立場が変わります」


 瓔偲はそこで、ひとつ静かに呼吸した。


「先程も申しましたが、世間の、癸性の者へ向ける視線は、いまだ公正なそれとは申せません……殿下のそれとは、ちがって。癸性への風当たりは、いまだ、相当に強いものなのです。発情期を持ち、本能に支配される、おとった者だ、と……はばかることなくそう言う者もおりますし、口に出して言わずともそのように思っている者の数は、もっともっと多いでしょう。賢明なる皇帝陛下はそれをくつがえそうと様々な政策を打ってくださってはおりますが、まだまだ、そうした施策とて浸透しきってはいない状況です」


「それが俺の立場とどう関係するんだ?」


「この国の民の中にはまだ、わたしのような癸性の者を、皇太子妃として……いずれは皇后になる者として、受け入れる土壌が育ってはいないということにございます」


「つまり……お前はなにが言いたいんだ」


 燎琉は腹の底にむかむかと気色の悪いものを覚えつつ、眉根を寄せた。決して、瓔偲に対して不快になったのではない。そうではなくて、彼の発言の中味は――それがこの世の現実の姿なのだとしても――聴いていて気分のいいものではなかった。


 燎琉が声を低めたので、瓔偲はややたじろぐようだ。


 けれどもすぐに顔を上げ、真っ直ぐにこちらを見た。


「すなわち、わたしを妃として迎えることは、確実に殿下を皇太子の位から遠ざけるということです」


 彼はきっぱりとそう言い切った。


「ですから、そういう陰謀であった可能性が」


 それから、ちいさな声でそう付け足した。


 燎琉自身は、なにも皇太子の位を積極的に望んでいるわけではなかった。そもそも自分は皇帝の第四皇子なのだ。五年前、先帝の崩御に伴って父が皇帝の位にき、その機に合わせて母が立后りっこうされるまでは、決して皇嗣こうしに近いとは言えない、一皇族に過ぎなかった。


 燎琉の上には異腹の兄が三人いたし、長幼の順を重んじるならば、そもそも皇嗣が自分であるはずがない。いずれ父帝は皇太子を定めるのだろうが、三人の兄のうちの誰かが――もちろん、まだ下にいる弟皇子でもいいわけだが――選ばれるなら、別にそれで構わないと思っていた。


 ただ、母皇后にとって、自分が唯一の皇子であるのは確かである。だから、母が燎琉をこそ皇太子に、と、そう考えていることも知っていた。


 燎琉の成人を機に、本格的に目的を達するために動きはじめていることも――宋家の令嬢ひめである清歌との婚礼を目論もくろんだことも、その一環だと――わかっている。


 燎琉にすら、わかるのだ。ならば周囲には、燎琉こそ皇太子に最も近い候補である、と、そう考えている者がそれなりの数にのぼるだろうことは、紛れもない事実だった。


 燎琉が皇太子となることを望まない誰かが、燎琉が甲性であることを利用して瓔偲と無理につがわせ、燎琉を皇嗣に近い立場から引きろそうとしたというのか。


 たとえば、事故に見せかけ、敢えて癸性の者とつがわせてしまう。現皇帝のこれまでの施政方針をかんがみれば、ひとたびそうなったなら、皇帝がその癸性の者と燎琉とをめあわせる方向に動くことは、あるいは、予想の範疇はんちゅうといえるかもしれない。


 燎琉は、癸性の妃を持つことになる――……まだ、民にとっては受け入れることの難しい、癸性の妃を。


「お前を利用して、俺をおとしいれる陰謀だったと……? なんだそれは? ふざけるな」


 燎琉は眉を顰めて歯噛みした。


「もちろん、すべては可能性の話です。ですが、もしもそうだと仮定すれば、殿下が皇太子の位から遠ざかったことで、逆にそこに近付く者の中に……つまりは、首謀者の候補の中に、先帝の皇子である鵬明さまも、確実に、いるのです」


 瓔偲の言葉に、燎琉は目を瞠った。


「叔父上が、まさか」


 そんな莫迦な、と、燎琉にはそうした想いしかない。だが、瓔偲は難しい顔をしたままだった。


「鵬明さまご自身でなくとも、皇弟おうてい殿下の周囲にいる者が画策かくさくすることだってありえますから……鵬明さまでないとすれば、他には、ばん貴妃きひのお産みになったしゅ煌泰おうたいさま。貴妃のお父上は、いまの尚書しょうしょれい――れいへいけいこうの国府六部を束ねる実力者です」


 瓔偲が続けて口にしたのは第三皇子、燎琉にとってはすぐ上の兄の名であった。その裏には、国府の権力者の影までがちらつくのだと彼は言う。


 単に不慮の事故であったのだと思っていたことが、実はそうではないのかもしれない、と、そう告げられて、燎琉はたまらないきもちになっていた。無意識にこぶしをきつく握りしめている。


「もしも、そうなら」


 瓔偲が言葉を継ぎ、それではっとしたときには、爪がてのひらに食い込んでいた。


「殿下のお怒りはごもっともです。ですが、だからこそ……そこに一縷いちるの望みがあるとも言えますでしょう」


 燎琉の心情をおもんぱかりつつ、瓔偲は静かに微笑んで言った。

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