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2-4 不穏な言葉の裏に

 恨めばよいのかという不穏な言葉とはうらはらののふんわりとした表情に、燎琉りょうりゅうは困惑して言葉を失う。それを見て瓔偲えいしは、ふ、と、口許をゆるめた。


「そんなことを言ってみたところで、でも、それがいったい何になるというのでしょう? すでに起きてしまったことですから……受け入れるよりほか、しようがありません」


 目をすがめ、やわらかく微笑したままで言う。それから瓔偲は、燎琉に向かって、軽く頭を下げてみせた。


「申し訳ございません、殿下。先程のは、ほんの冗談かるくちにございます。わたしは殿下をお恨みなどしておりません。――すべて陛下の思し召し、殿下の思し召しの通りにいたす所存にございますが……お気遣いいただき、ありがとう存じます」


 そう言ったときには、もう、先に瓔偲の眸に映った感情の光は、すっかりなりを潜めてしまっていた。


 なんとも複雑なきもちで燎琉が相手を見詰めていると、瓔偲は、こと、と、ちいさく小首を傾げる。その動きに合わせて、絹のような、艶やかな黒髪がわずかに揺れた。


「ただ……先程申した中でも、もともと誰かと結婚するつもりがなかったというのは、本当です。わたしは、官吏として、生涯、我が身は国のために捧げようと思っておりましたから」


 はたはた、と、瞬いた瓔偲えいしはそんなふうに言って、なんとも曖昧あいまいな、苦笑めいた笑みを頬に浮かべた。


 すう、と、燎琉りょうりゅうのほうから逸らされた黒眸は、どこか遠くを眺めやるようである。結局、彼は、燎琉との婚姻についての本音をはっきり答えないままに黙り込んでしまった。


 空間に沈黙もだが落ちる。


 痛いほどの静謐せいひつの中、瓔偲は何か迷うような、言いあぐむような気配をみせていた。


「どうか、したか……?」


 燎琉は堪りかねて、相手の端正な横顔に問いかける。


「言いたいことがあるなら、べつに、隠さずに言ったらいい」


 そう続けると、瓔偲ははっとした様子で燎琉を見た。長い睫に縁どられた涼やかな目許が、驚いたように見開かれている。


 しばらく戸惑うふうだったが、やがて、瓔偲は意を決したふうに真っ直ぐに燎琉を見詰めた。


「殿下……殿下には、信用がおける医師くすしに、心当たりはございますでしょうか?」


 それはあまりにも唐突な言葉だった。


医師くすし?」 


 突然変わった話題についていけず、鸚鵡おうむ返しにそう繰り返す。


 いったいどうしたんだ、と、うかがう視線を相手に向けると、瓔偲は真摯しんしな眸で燎琉を見返していた。


 あるいはそれは、どこか思い詰めたような表情だったのかもしれない。


「どうか、したのか……?」


 燎琉が問い方を変えると、いえ、と、わずかに躊躇ためらう素振りを見せる。


「いいから、言え」


 なにやら言いあぐむ相手に決心を促すように、燎琉はそう言葉をかけた。


 瓔偲は、ふう、と、己を落ち着けるようにひとつ吐息を漏らす。それから、白くうつくしい手指てゆびを、しずかにふところへと忍ばせた。


 取り出してみせたのは、何ら変わったところのない、ひと包みの薬包である。


「これは……?」


 目の前に差し出された薬の包みを燎琉は我が手に受け取ってしげしげと眺めた。


「わたしが日頃服用していた、発情を抑制するための薬です」


 瓔偲は端的にそう答えたけれども、それでもまだ、燎琉には、相手がそれを自分の目の前に出してきた意図がわからなかった。


「この薬が、どうかしたのか」


 重ねて問うと、瓔偲は何かを訴えるような眼差しを燎琉に向けた。


「わたしは発情を抑制する薬を呑んでおりました……間違いなく」


 強い声で、そう言う。


「二年前、いまの陛下のおぼし召しにより、発情期のある性の者にも、国官への道が開かれた。これは殿下ももちろんご存知のことかと思います。ですが、第弐性を有し、これが癸である者が国府に勤めるにあたっては、いくつか、条件が課せられる。吏部の医官が処方した薬を必ず服用しなければならないというのは、その規則きまりのうちのひとつでございます」


 だからその通りに薬は服用していた、と、瓔偲は言う。


「では、なぜ……お前はあのとき、発情を起こしたっていうんだ?」


 そう、七日前、燎琉が昭文しょうぶん殿でんに足を踏み入れた時、先に室内にいた瓔偲は発情していた。それに誘引される形で燎琉も発情状態におちいり、そのままふたりは身をちぎった上、つがいにさえなってしまったのだ。


 だが、瓔偲が薬を服していたというならば、普通ならそんなことが――発情状態になるようなことが――起きるはずがない。


「理由は、わかりません」


 瓔偲はちいさくかぶりを振った。


「わたしは、自分が第弐性を有することがわかってからずっと、薬を服用し続けてきました。ですが、これまで一度も、効かなかったことなどなかったのです。あのときが、初めて……だから」


 そこまできて燎琉は、ようやく、いま瓔偲が信用できる医師くすし云々と言った意図をつかんだ。


「まさか……この薬に、なにか仕込まれた、と……? お前はそれを疑っているのか?」


 燎琉は瓔偲から手渡されていまは我が手の中にある薬包をまじまじと見る。


「わかりません」


 瓔偲はまたそう言って首を振った。


「確信などありません。でも……いいえ、だからこそ、調べていただきたいのです。むずかしいでしょうか?」


 黒い眸が、強い光を宿して真っ直ぐに燎琉を見る。燎琉はその視線を受けて、こくり、と、息を呑んだ。


「わたしたちがつがってしまったのは、誰かのたくらみにはまったためだったのかもしれません」


「企み……」


「はい。あのときわたしが身に付けていたうなじを守る首輪くびかざりにも、細工さいくがなされていた可能性があります。あれもまた、法令で定められた、官製のもの……癸性の国官に着用が義務づけられているものです。本来なら、あんなにも簡単に、留め金が外れるものではないはず……誰かが、あらかじめ、ゆるめておきでもしなければ」


「っ、いったい誰が!?」


 燎琉は思わず立ち上がって、強い口調で言っていた。


 あの日、自分たちは望まずつがいとなり、そのために、いま婚姻までする羽目になっているのだ。


 事故とはいえ、自分が瓔偲をつがいにしてしまったのでは事実だ。ならば父帝の命の通りに責任をとろう、と、燎琉は覚悟を決めた。


 けれども、あれはそもそも、事故ではなかったのかもしれない。


 誰かが、故意に、悪意をもって、自分と瓔偲とを敢えてつがわせた可能性があるということか。


 誰がなんのために、と、燎琉はきつくこぶしを握りしめた。


「……わかりません」


 苛立つ燎琉に、瓔偲はまた静かに首を振る。


「ただ」


 そう、彼は言葉を継いだ。


「陛下は癸性の地位向上を掲げていらっしゃるけれども、まだ、癸性の者が社会に出ることへの逆風は強いことに変わりはありません。妻として、母として、家にいるべきだ、と……表だって口に出すことこそなくとも、そのように考えている者は、数多あまたおりますでしょう」


「……どういうことだ?」


「つまり、癸性のわたしが国官として勤めていることを、こころよく思わぬ者は、いまだ、多い」


 静かにこぼされた言葉に、燎琉はまじまじと瓔偲を見た。


「お前への、嫌がらせか何かだ、と」


「可能性は否定できません。もしもそうなら、それに巻き込まれた殿下には、ほんとうに申し訳なく……そのせいで、ご婚約まで駄目にしてしまって」


 瓔偲は言いながら、やや顔を伏せがちにした。


「それは別に、お前のせいじゃないと言ったろ? もしも本当に誰かの企みだったというのなら、責められるべきは、その黒幕だ。ちがうか?」


 燎琉は吐き捨てるように言った。それから再び瓔偲に視線をやると、彼は驚いたふうに目をみはっている。


「どうしたんだ?」


 怪訝けげんに思って訊ねたが、いえ、と、相手は言葉を濁した。


 それでもまだどこか戸惑うふうなのをいぶかるきもちはあったが、燎琉はそれ以上追及せず、もう一度椅子に腰掛けなおした。


「殿下、失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」


 そこへちょうど、茶器を持った皓義が扉を開けて入ってくる。燎琉は正房へ足を踏み入れた侍者に、ちら、と、視線を向けた。


「皓義か。悪いが遣いを頼まれてくれないか」


 早々に確かめるべきことがある。それで燎琉は、皓義にそう言った。


「はあ、それはもちろん、かまいませんが……急に何事です?」


 皓義は茶器を卓子へ並べつつ、驚いたように目を瞬く。


「じぃを……しゅう太医たいいをここへ呼んでくれ」


 にもかくにもまずは瓔偲の薬だった。これに混ぜ物がされていないかどうか、それを確認しなければならなかった。

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