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2-3 仮面夫婦の提案

「お前は……!」


 燎琉は瓔偲があまりにもすらすらと言葉をつむいだのに対して、思わずいきどおるように言っていた。


 けれども、そこで、はっと口をつぐむ。この怒りは、瓔偲にとっては、理不尽なそれでしかない。それでもなお相手に突っかかってやりたい気分に襲われるのは、あるいは、口惜くやしさのためだろうか。


 まるで自分だけが、つがいを得たこと、その人をまさに迎え取ったのだという事実に、振り回されているかのようだ。


 燎琉は顔を上げて、瓔偲のほうを――その真意を探るように――まじまじと見詰めた。


「国官、しかも十歳とおも年上の書吏しょりなど、殿下にとっては願い下げでございましょう。ふつう、誰でも、そう思います。可愛いらしいお嬢さまをお迎えになるほうが、誰にとっても良いに決まっております」


 瓔偲は穏やかに笑って、ふ、と、ちいさく――どこか自嘲めいた――息を|ついた。その静かな微苦笑は、こちらに、ちっとも感情を読み取らせてはくれない。


 それを目にすると、説明できない苛々にまた尖りかけていた燎琉の気持ちは、またしても、不思議と凪いでしまっていた。相手から再び、すっと視線を逸らしている。


「殿下」


「……なんだ?」


「殿下から妃として遇していただくことを、わたしは、もとより望んでおりません。ですから、もしもいま殿下に、誰か、想いを寄せる御方がいらっしゃるのなら……殿下には、その想いを、どうか大切になさってくださいませ。殿下はこう性。たとえわたしというつがいを持ったとしても、なにもそれで、他の者を愛せなくなるわけではないのですから」


 己の想いを大事にせよ、と、間もなく伴侶つまになるはずの相手は、なんのこだわりなくそう言った。その声はとても穏やかで、静かで、やさしい。きっと彼の本心からの言葉なのだろう。


 だが燎琉は、またしても、瓔偲の言葉の真意を掴みかねて戸惑っていた。


 妃として遇さずともよいとは、いったい、どういうことだろうか――……婚姻を前に、けれども、すでに瓔偲は燎琉との間に愛をつむいでいくことを望んではいないというのか。


 瓔偲は燎琉に、彼の夫たることを、まるで期待していない。


 相手の言葉の意味をそんなふうに理解すると、その宣告が、なぜか燎琉の胸をきゅうっと締めつけた。息が、詰まる。


「っ、でも……お前は?」


 自分でも説明のつかないような口惜くやしさや切なさに、思わず、そんなことを言っている。


 たしかに第二性が甲である燎琉は――つがいを得たことで、瓔偲以外の他の性の放つ発情期の匂いに反応しなくなりはしても――望めば、他者と肉体関係を持つことだって可能だった。めかけを持つことも出来るのだし、実際、先程は皓義の口からも、側妃という言葉が出てきていた。


 だが、一方で、癸性である瓔偲はそうではないのだ。


 目の前のこのしなやかな身体は、もはや、つがいとなった燎琉以外がひらくことはできない。


 瓔偲は爾後じご、生涯にわたって、燎琉以外に抱かれることはない。身体が受け付けない。


 このひとはおれだけのもの――……そんな思考が頭の隅をかすめ、燎琉は思わず、こく、と、喉を鳴らしていた。


 ふいに、気高く咲き誇る白百合のような香が匂い立ったような気がする。その途端、ふらりと手が伸びていた。


 気づけばてのひらを相手の白い頬に触れさせて、意図せず、親指の腹で薄いくちびるをなぞっている。


「殿下……?」


 瓔偲は抵抗しなかったが、いぶかるような声を上げた。


 くちびるに触れていた手指がほんのりとぬくもりを帯びた吐息を感じ、それで燎琉は、はっと我に返った。


「か、らだ……その……大丈夫、だったのか?」


 手を離しながら言い訳のように口にしたのは、いかにも今更な、そんな問いだった。


 瓔偲がはたはたとまたたく。最初は問いの意味がわからなかったのか、しばらく不思議そうにしていたが、やがてこちらの意図を理解したらしく、その口許がふわりと笑みのかたちにゆるんだ。


「はい。お気遣いありがとうございます」


 相手は静かに答えた。


 燎琉は、ほ、と、安堵の息を漏らす。けれども、それがいったい、相手が無事を告げたことに対しての安堵か、それとも己がいま無意識にとってしまった行為を誤魔化ごまかせたことにほっとしたのだったかは、自分でもわからなかった。


 そして、もしも後者ならば――……いったい、誤魔化すべき何が、我が心のうちには生じているというのだろうか。


 燎琉は己の感情を掴みかねて、眉間に皺を寄せた。


「殿下は……お優しくていらっしゃいますね」


 瓔偲がそんなことを言った。


「べつに」


 燎琉はつい、ぶっきらぼうに返事をしている。思わず相手から顔を背けてしまった後で、ちらりと横目に相手を窺うと、瓔偲はやっぱり頬にいたしずかすぎる微笑を崩さぬままだった。


 いったいこの平静は、彼が自分よりも十歳とお近くも年齢としが上だという、それゆえの余裕なのだろうか。燎琉は、ふと、そんなことを思う。


「お前は……いいのか? その……俺との、婚姻のこと」


 それよりもなによりも、不慮の事故によって燎琉と間で番の関係が結ばれてしまったことを、彼はどう受けとめているのだろう。


 ふいにそれが気にかかって、燎琉は顔を上げ、もうすぐにも自分の伴侶はんりょとなると定められた相手を見詰める。


 燎琉の問いに、瓔偲はしばし黙した。


 が、やがて真っ直ぐに燎琉を見返すと、言った。


「よい……わけがありません」


 それは、あまり感情の籠らぬ声だ。


 はっきりと聴こえたその内容に、燎琉は息を呑んだ。


 だが、そんなこちらを気に留めるふうもなく、瓔偲は続ける。


「わたしは官吏です。下官に過ぎぬとはいえ、まつりごとの一端を担い、国のために尽くすべき身……癸性とはいえ、誰かにめとられ、妻となり、母となる人生など、これまで考えたこともございませんでした。それが、急に皇子殿下と婚姻せよだなどと命ぜられて、すぐに受け入れられましょうか? よい、わけがない。殿下はなぜ、あのとき、わたしをんで……つがいになさってしまわれたのか」


 黒曜石の眸が、真っ直ぐに燎琉を見る。その眼差しには、こちらをたじろがせるような、強い光が宿っていた。


 燎琉は目をみはって、じっと息を詰めた。


「あ……」


 なにを言って良いかもわからないまま、それでも何か言わずにはいられなくて、意味のないうめき声のようなものをあげた刹那だ。


「そう言って、殿下をお恨み申せばよろしいのですか?」


 ふと、瓔偲はやわらかく相好そうごうを崩した。 

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