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1-2 甲癸の交わり

 こう性と性という第弐性を有する者には、発情以外にももうひとつ、大きな特徴があった。つがいと呼ばれる、特殊なつながりの発生である。


 つがいとは、発情状態の甲と癸が交合し、その際に甲性の者が癸性の者のうなじむことで成立する。


 咬んだ甲性の者は、以後、つがいとなった癸性の者以外の匂いで発情を起こさなくなる。一方で、つがいを持った癸性の者は、発情時に発する芳香で、もはやつがいの甲性以外の者を誘惑することがなくなるとされていた。


 さらに、癸性に限っていえば、つがいの者以外との性交によって、激しい発作症状が起るようにもなる。すなわち、つがいでない者と肉体関係を持つことは、以後、不可能になるということだ。


 一度ひとたびつがいとなれば、その関係性は、生涯にわたって解消されるものではない――……まさに終生の伴侶ともいえるもの、それが、つがいと呼ばれる関係だった。


 そのつがいを、燎琉りょうりゅうは、七日前の不慮の事故ともいうべき出来事によって、本意ほいでなく持つこととなってしまった。


 その事件があってこその、いまの父皇帝からの呼び出しである。


 あの日、燎琉が昭文しょうぶん殿をおとなった時、その殿舎には先客がいた。その人物が、戸部こぶ書吏しょりであるかく瓔偲えいしという青年であったことは、後になって知らされた。


 つまり、相手の名も、どのような立場の人間なのかも知らないまま、燎琉は彼をつがいにしてしまったというわけだ。


 その、郭瓔偲――……彼もまた、上官の指示のもと、文献を探しに書庫へやってきていたらしい。だが、癸性であった彼は、そこで不意に発情を起こしてしまった。


 燎琉が昭文殿の扉を開けたのは、まさにその時だった。


 蔵書閣の室内いっぱいにただよった、あの濃密な芳香――……白百合の花にも似た香りにあらがいがたくきつけられ、そのまま正気を失した燎琉は、見書台のところにうずくまっていた瓔偲を――結果として――犯してしまったわけである。


 己が何をしているのかなど、あの時は、わからなかった。


 ただ相手をむさぼり尽くすことに必死で、つながった後は、相手の体内に幾度も幾度も精を吐いた。


 そして最後には、たまらぬ慾のはしるままに、相手のうなじを守っていた首輪くびかざりを引き千切って、そこに歯を突き立ててさえいた――……なんということをしてしまったのだろう、と、いまになって燎琉は忸怩じくじたる思いを噛む。


 その後、昭文殿へ出向いたきり戻ってこない瓔偲を案じた彼の上官が、下官に命じて蔵書閣へ様子を見に来させる至って、事態は発覚したらしい。が、燎琉は、その時のことをよく覚えてさえいなかった。


 その頃、すでに、燎琉も瓔偲も、荒淫ともいうべき交わりで意識を朦朧もうろうとさせていたという。それでも、燎琉は瓔偲を後ろから抱えるようにして、まだ放さずにいたようだ。ふたりの身体はつながったままだった。


 事情を聴いて駆けつけた太医いしに薬を飲まされ、相手と引き離された燎琉が我が殿舎の自室で目覚めた時には、すでに次の日の昼も近くなっていた。


 以来、楽楼宮の東の一角にたまわった己の殿舎にての謹慎、という扱いが続いていたわけだが、今朝方、ついに皇帝からの呼び出しを受けることになったのだ。


 つまり、七日を経て、この件をどう収めるのかが――燎琉や瓔偲をどう処遇すべきかが――定まったということである。


「皇子よ……そなたは、どう方をつけるるつもりだ?」


 皇帝は燎琉に訊ねたが、これは形ばかりのものであろう。


「いえ、俺は……」


 だから燎琉は、そう、言葉を濁すしかなかった。


 たとえばいま呼び出しを受けているのが、皇宮こうぐうの中でも皇帝の私的な生活の場であるならば、燎琉とて、父は息子に少々おきゅうを据えるくらいのつもりだ、と、思ったかもしれない。


 だが、実際は、そうではない。なにしろここは内殿だった。皇帝の政務の場、つまりは、立派におおやけに属する空間である。


 それだけに、父皇帝がこの件を内々に片付け、事を穏便に済ませるつもりがないだろうことを、燎琉は覚悟せざるを得なかった。


 父皇帝はいったい、息子の仕出かしたことに対して、どういう対処を考えているのだろうか。燎琉が言葉を継がずに黙り込むと、やがて父帝は、ふう、と、しずかな嘆息をもらした。


「皇子よ」


 重々しい声で言う。


践祚せんそ以来、わたしが、癸性の者の地位向上を掲げておるのは……そなたも知っておるな」

 溜め息をつきながらの父の言葉に、燎琉は、はい、と、静かに頷いた。


「癸性の者は、発情期があるために、先代の時世まで不当に蔑視されてきた。き目を見せられてきたのだ。この状況は速やかに改善されねばならぬ、と、わたしの世になってからは、癸性にも科挙かきょを受ける資格を与え、国官登用への道を開いた。――郭瓔偲は、その後はじめての科挙で登用された、癸性初の官吏のうちのひとりだとか」


 そこで皇帝はまた、ふう、と、重たく長い息をつく。


「そして、燎琉、そなたは癸性の地位向上を掲げるわたしの皇子、しかも皇后の生んだ唯一の皇子だ。立場上、癸性の者を不当に扱うことは、赦されぬ。――わかるな?」


 そう言われ、燎琉は思わず顔をあげた。


「ですが、父上、あれは事故で……!」


 かく瓔偲えいし交合まぐわい、つがいとなってしまったのは、あくまでも不可抗力の事故である。燎琉とて、決して、癸性の者をないがしろにする意図がを持っていたわけではなかったのだ。


 顔を上げた燎琉はそんなふうに抗弁しかけたが、けれども、父帝は軽く手を振って、燎琉の言葉をさえぎった。言い訳は無用、と、そういうことだろう。


 燎琉はぐっと奥歯を噛みしめた。


 己にももちろん言い分はある。それでも、至尊の位にある皇帝の意を受けては、口をつぐみ、再び頭を下げてかしこまるよりほかなかった。


「そなた、そう家の令嬢と相思相愛だとか……皇后から、聞いたが」


 不意に、皇帝はそんなふうに話題を変えた。


 宋家の令嬢とは、燎琉が、母の膳立てで幾度か逢っている少女、宋清歌のことである。父の話の脈絡がわからず、燎琉は一瞬、え、と、息を呑んだ。


 相手の意図を推し量ろうと、再度顔おもてを上げ、父帝をじっと見る。


 父が何を思ってそんな話題を持ち出したのかはわからないながらも、なんとなく、いやな予感がしていた。身体の中に虫が這入はいり込み、ぞわぞわとうごめくような気色の悪さに、燎琉はてのひらを握り締めた。


「相思相愛というほどでは……」


 だがそれがいったい何だというのだ、と、そんな言葉をかろうじて呑み込みつつ、燎琉は父帝の言葉に、そう応じた。


「うむ。だが、すくなくとも、そなたはその娘を気に入っておるらしいではないか」


「それは……うつくしく、おっとりとした、申し分ない御令嬢に見えましたので」


 当たり障りのない返事をする。


「そうか」


 父皇帝は、気があるのかないのかわからない頷き方をして、また嘆息した。


 こちらを見る父の眼差しに宿った、こちらを憐れむような、なんとも複雑な色合いが、燎琉に、ますます、なんともたまらない不安を起こさせた。

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