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1-1 父帝の呼び出し

 とう国は、かつて群雄ぐんゆう割拠かっきょの戦国時代に、いち早く中原に覇を唱えた国である。戦に明け暮れた太祖たいその時代、国は周辺諸国をみ込み、やがて大国と呼ばれるにふさわしい領土を誇るようになった。


 その頃、嶌国国主は皇帝を称するようになった。


 以後、数代の時が流れている。その間、今日こんにちに至るまで、天下万民の安寧のため、嶌国皇帝は法を整え、また地をならし、水を治めてきた。国境付近ではいまなお小競り合い程度のいくさこそあるものの、ここ数十年は、大乱という大乱もない。


 帝都・翠照すいしょうは泰平を謳歌おうかし、いままさに栄華の盛りを迎えんとしていた。


 さて、その帝都は、いかにも大国の都というにふさわしく、城都まちひとつがまるごと、堅牢けんろうなつくりの郭壁かくへきに囲まれている。その城都まちの北側には、更にもう一重、城壁に囲まれた一画が存在していた。


 国のまつりごとの場である国府こくふである。


 この国府には、三省さんしょう六部りくぶと総称される国家の役所があり、それぞれの官舎が数多あまた立ち並んでいた。そこからさらに北へ向かって進んでいくと、次には、立派な城牆じょうしょうが見えてくる。


 その壁をへだてた内側は、壮麗な殿舎の並ぶ皇宮こうぐう――……楽楼宮らくろうぐう、と、そう呼称されるその場所こそ、皇帝とその親族が起居する場所であった。


 楽楼宮の中央には、皇帝の居宮に当たるきらびやかな殿舎があり、その北側には、后妃の住まう後宮の殿舎がいらかもうつくしく並び立つ。そして、その東西には、成人を迎えて独立した皇族男子が暮らす殿舎が配されていた。



 さて、それら楽楼宮に並び立つ数々の殿舎のうち、最も手前に――城牆じょうしょうから、半ば国府のほうへり出すような形で――建っているのが朝堂である。


 楽楼宮と国府との境であるこの建物は、内殿と外殿とのふたつから成っていた。内殿は皇帝が執務を行う場であり、一方の外殿は、百官が皇帝に謁見する場となっている。


 その日、とう国の第四皇子・しゅ燎琉りょうりゅうが父皇帝に呼び出されたのは、その朝堂のうち、内殿の一隅にある、皇帝が常に執務を行うための書房だった。


 燎琉を前に、父帝は悩ましげな表情で額を押さえ、ふう、と、溜め息をついた。


「そなたが此度こたび手を出した相手は、戸部こぶの官吏だそうだな」


 口調こそ穏やかなものではあったが、父の顔に浮かぶのは、実に複雑な表情である。


 戸部とは、国の組織する三省六部のうち、尚書しょうしょ省のもとに設けられた部署のことだった。主に国家の財政を管理するのが職掌である。


 その戸部の書吏しょり――最下級の下官――のひとりを、現帝の皇子である燎琉は、犯してしまったのである。まったき不祥事であった。


 事が起きたのは、いまをさかのぼること七日前の、昼下がりのことである。


 とう国では、皇帝と皇太子とを除く皇族男子は、成年を迎えるとともに、それぞれに職務を得て国府へ出仕することとなっていた。


 今年十八歳じゅうはちを迎えた第四皇子・燎琉もまた、年が改まるとともに、工部こうぶ――戸部と同じ六部の一で、主に公共の土木事業を管轄する部署――に勤めはじめていた。


 そして、燎琉が現在預かっているのは、国の南部を流れる河川・威水いすいつつみ工事の案件だ。今年の雨期、威水で堤が決壊したため、皇帝からは修繕しゅぜんの命が発せられていた。


 こうした皇帝の命は、三省のうち、中書ちゅうしょ省での審議・裁可を経て、尚書省へとまわされる。そこから更に、下部機関の六部のうちの適切な部署へと下ろされるというのが通例だった。


 七日前のあの日の朝、侍者じしゃに送り出された燎琉は、いつも通り、工部の官舎へ仕事に出た。その後、事の現場となった国府の蔵書閣――書庫――である昭文しょうぶん殿へ出向いたのだ。


 それは単に、職務の上で必要になった資料の閲覧のためだった。


 むしろ、堤改修の工事計画の策定のため、ここ数日来、燎琉はそのほとんどの時間を、昭文殿に籠っているようなものだったのである。


 まさに、いつもと同じ行動を取っただけだ。


 しかしあの日は、蔵書閣の扉を開けた途端に、燎琉は正気を失くしてしまった。


 その時に嗅いだ、清冽な、けれども同時にせ返るかのように甘くもあった、あの香り――……いま思い出すだけでも背筋がぞくりとあわだつようだ。鋭いほどの、快美のためだった。


 制御できなかった、強烈なまでの性衝動。


 そして慾。


 それは燎琉がこう性であるがゆえに味わうこととなったものだ。


 人間ひとには男女の性別べつがある。そして、大部分の者たちは、その性別によって伴侶を得る。

 だがまれに――百人から数百人に一人程度の割合だと言われているが――この性別べつのほかにもうひとつ、第弐性と呼ばれる性を持つ者が存在していた。


 このうちの一方の性をこう性といい、もう一方の性を性という。


 甲性を持つ者は、それが男であれ女であれ、女または癸性の者をはらませることができる。癸性を持つ者は、それが男であれ女であれ、男または甲性の者の種を孕むことができる。それが、第弐性といわれる特別な性別だった。


 そして、男女の別とは異なるこの第弐性の特徴として、甲性・癸性ともに、理性によってあらがうことの難しい激しい性衝動――発情――を起こすことが知られていた。


 特に癸性を有する者には、定期的な――個人によって差があるが、おおよそ三月から四月に一度程度で、三日から七日ほど続く――発情期がある。


 その時期、癸性の者は、性交への抑えがたい欲求に駆られると共に、その身体から、甲性の者だけが感じ取れる特有の芳香かおりを発するのだ。そして、その芳香は、近くにいる甲性の者を誘い、強制的に発情させる効果を有していた。


 互いに 発情状態に陥った甲癸は、意思や情の有無に関わらず、否応なく、性交に至ってしまう。


 燎琉は、いまの皇族の中では唯一、甲性を有していた。だから、あの日、燎琉の身に起きたのは、つまりはそういうこと――……発情期の癸性の者と遭遇し、芳香においてられてこちらも発情して、結果、相手と交合してしまったということだった。


「まったく、やっかいなことをしてくれたものだ」


 父は燎琉に言った。心底困ったという口調だ。燎琉は返す言葉もなく、ただ黙って、その場にかしこまっていることしかできなかった。


「しかも、つがいにまでなってしまったとは……」


 父帝が言ったつがいという言葉の意味の重みに、燎琉はくちびるを噛む。


 つがいとは、ひとたび結ばれれば、もはや一生涯解消することのできない特別なきずなだった。

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