その日は静かな日だった。何が静かなのかと言うと、マナーのレッスンの時間になっても、アイシャがやってこないのだ。なので時間になっても始まらない講習で、俺とトロンは静寂の中を過ごしている。
先に口を開いたのは俺の方だった。
「あの~、アイシャお嬢様はどちらに?」
「花を摘みに行ったきりだ。もう帰ってきてもおかしくない時間だが‥‥‥少し、呼びに行くか」
そう言ってトロンは部屋を出ていった。女子トイレに呼びに行くなんて、後日トロンと言う男性が女子トイレを覗き込んでいたという噂が立っても知らないぞ。
ぷくく、想像したら面白くなってきた。尾ひれを付けて、女子トイレの中に入ったってことにしてやろうかな。
そんな悪だくみをしていると、ダダダダと廊下を駆ける足音がだんだんと大きくなってくる。そして俺のいる空き教室がバンと勢いよく開くと、先ほどトイレに行ったはずのトロンが眉を吊り上げて吠えた。
「お嬢様がいない! 探すのを手伝ってくれ!」
「いないって、トイレの中には――」
「トイレの中にもいなかった! お嬢様の逃走癖が顔を出しやがった! 俺は校舎を探す! ランデオルスは外を探してくれ!」
トロンはそれだけ言うと、俺の返事も聞かずにまた駆けだした。
本当に女子トイレに入ったのか‥‥‥。中って男子便所と同じ構造なのかな。
なんで俺がこんなに呑気なのかと言うと、以前初めてアイシャと出会ったときも彼女は逃げてきたのだ。そして、これまでの言動から鑑みるに、自分の興味を持ったことに対してはとことん突き進む性分だ。
そして、彼女が今一番興味を持っていることと言えば海竜だ。なので結論竜舎にいると思われる。
でもトイレに行って、そんな海竜への興味をそそられるものなんてあったけな? 女子トイレにはあるのか?
ということで、竜舎に向かっています。流石にこの前のことがあったから、海竜に不用心に近づくなんてことは無いだろう。近づいたとしてもフィオナなら攻撃されることもないだろう。フィオナは頭がいいからな。
さて、ゆっくりと向かいますか。
たまにはレッスンも休みたいよなと前回休んだことによって休むということの素晴らしさを知ってしまったランデオルスは、頭の後ろで手を組み、とて、とて、と小さな歩幅で進んだ。
竜舎の入り口が見え始めた頃、突如として、海竜の嘶く声が聞こえた。
何かあったのかと、駆け足で声のした方に向かう。声が籠ったように響いていないので、その声は竜舎のなかではなく竜舎の外。俺のいる位置とちょうど反対側だと分かった。
竜舎の角を曲がろうとしたとき、アイシャが見えた。
「お~アイシャ、こんなところにいたの――」
「ら、ランディ‥‥‥」
アイシャの様子がおかしい、まるで恐怖で慄いているように声が震えている。
俺は、駆け足からダッシュに切り替えて、角を曲がった。
そこには同学年の男子二人組と、海竜が一匹。しかし、和やかな雰囲気などはなく、一触即発の空気だ。いやだった。
俺が姿を現したことによって、男子二人組がこちらを振り向いてしまった。
馬鹿ッ!! 対面で興奮状態の海竜に目を逸らすなッ!!
その瞬間、鼻筋に皴を寄せていた海竜は全身をバネのようにしならせて飛びかかった。
ほんの一瞬の出来事だったのだろうけど、俺はゆっくりに感じた。
もう一度海竜の方を見た男子たちの恐怖や焦りといった表情。口を大きく開く海竜。腰を抜かしているアイシャ。まずい、このままじゃ! どうする!
まるで世界がスロー再生になったように、感覚が引き伸ばされていく。滴り落ちる汗さえも気持ち悪く感じる。
どうすれば、どうすれば――
何も思いつかない中、身体だけは勝手に動いていた。俺は再び走り出して、男子二人組を押しのける。
ドサッと地面に突っ伏す二人。俺はと言うと自分でも以外だったが、どことなく冷静な自分がいるのに気が付いていた。
何回も死ぬような目にあったからだろう。少し場慣れしている自分がいる。眠り笛を吹けば、なんとかなったなぁ。強制的に海竜の行動を抑制できることが俺に出来れば、この牙が俺の身体に突き刺さることも無いんだろうな。
俺は来たる痛みに備えて、身体に力を込めた。
“―――――――ッ!!”
‥‥‥痛みが、来ない? 恐るおそる目を開けると、海竜は俺の目の前で目を見開いて固まっていた。これは、もしかして。
辺りをキョロキョロと見渡すと、遠くからこちらに駆け寄ってくる影があった。
その人影をじっと見ると、近づいてきてようやく誰か判明した。オレガノ先生だ。その手には眠り笛が握られている。
「全員無事か? 何とか間に合ったみたいだな」
ポタリと汗が顎から一滴落ちた。な、なんとか一命をとりとめた。
オレガノ先生はそのまま男子生徒二人に近づくと、拳骨を振り下ろした。
「話はあとで聞く、こうなった原因について。その後処分を決定する。そして‥‥‥」
俺に近づいてきたオレガノ先生は、そのまま俺の肩を掴んで、震えるほどの低い声で語りかけてきた。