その日の晩、ジェフから話があった。
「明日は一応お前に礼儀作法を教えておく。まぁいらんとは思うが一応聞いとけ」
「いや、助かります。何かしてしまったらどうしようかと思っていたので」
「相変わらず五歳児が考えることではないな、ガハハハ」
笑われてしまった。それにしても今日も飯がうまい! この鶏肉がホロホロしててなぁ。いいもん食ってますな。なんだかマナーの授業も余裕そうな気がしてきた。
と、思ってた時期が俺にもありました。
き、きつい。
「違う! お辞儀の角度が二度ずれている」
「ハイ!」
「口上はもっと相手を上げろ!」
「はい!」
「歴史は俺も好かん! この教科書を読んでおけ!」
「は、はぃ」
間違える度に殴られて、起き上がれないと殴られて、俺は疲弊し、終わるころには一歩も動けなくなっていた。
「に、逃げたい」
やっとの思いで出た言葉だった。そんな俺をフォルが心配そうに宥めてくれる。
あーあ。でも逃げたら怒られるんだろうなぁ。早く家族に会いたい。ジェフが言うには領主との面会の後に、俺は島に帰れる予定らしい。
切実に早く終わって欲しいと願う。
「君がランデオルスかね」
「ハッ、此度は百戦の英雄であらせられるハバールダ辺境伯にお会いできて、恐悦至極にございます。本来ならば私から出向かねばならぬところを、わざわざ足を運んでいただき申し訳ございません。」
「‥‥‥うむ。面を上げよ」
先ぶれがあってから、朝食が胃から戻ってきそうな面持ちで待っていたが、それよりも緊張で足が震えそうだ。
つくづく小市民だな、俺は。
ハバールダ辺境伯は金髪のイケオジで、その覇気は百戦錬磨の武人の様だ。
「良い、今日は公の場ではなし。殊更に言えば、お主はまだ五歳というではないか、十分すぎる礼儀を見せてもらった。直してくれ。さて、改めて自己紹介だ。私はハバールダ・リオネッツァ・ドイルオだ。今回私がここに足を運んだのは、そこの海竜とお主のことを聞きたい」
「ハッ、ありがとうございます。私はククルカ島生まれのランデオルスです。まずは何からお話し致しましょうか」
この前気づいたけど、俺って特殊な事情があったとはいえ、関所を通ってないから闖入者や間者と疑われてもおかしくなかったんだよな。
それをジェフがうまく収めてくれたのだとか。ありがたや。
「そうだな。では、ここに来るまでの経緯を聞こう」
俺たちは船小屋の二階に作られた部屋に移動した。
俺はこれまでのすべてを話した。アイシャに話した冒険譚の様にではなく、起きた事実を淡々と。
「なるほどな。そのフォルは、たまたま買った笛の音によって、意思疎通を図るに契機になったということだな?」
「おおまかに言えばそうです」
実は話してないことが一つだけある。巨大ガニに襲われているとき、フォル一人ならまだしも、俺を連れて逃げ切れるとは思っていない。
他の闖入者が現れたか、もしくは最後に吹いたあの壊れかけの笛の音色がいつもと違ったことか。
強すぎる魔物、しかも意思疎通が可能で仲間になって貰えるかもしれない。そんな事がバレてしまったら、徴兵されてしまう恐れがある。それは嫌だ、だから言わないことが一つあったっていいだろう。
「ふむ、一度検証してみる必要がありそうだな。笛の音で海竜への指示が可能なのかどうか」
「一つだけ、フォルは元野生です。他の生まれたばかりの頃からウチで育っていた海竜たちは興味は示すものの、それ以上の執着を見せることはありませんでした」
「そうか‥‥‥。未だ誰も解明できない野生の海竜の生態がそれを解き明かす鍵になりそうなのか、逆もまたしかりか」
なんか、大事になって来たな。
「良し、話は以上だ。おって沙汰を報せる。あと数日だけこの街でゆっくりしていてくれ。その後は責任をもって、お前を故郷に送り返そう」
「ありがとうございます!」
やっと会えるのか皆に。早く会いたい。
両親やソーニャの顔を思いだすと、思わず涙腺が緩みそうになった。
ここは、ハバールダ辺境伯の屋敷の一室。職人が丹精込めて作り上げた皮の椅子、それに深く腰掛けているのは領主その人、ハバールダ・リオネッツァ・ドイルオだ。
そして傍に使える彼らは、領主に忠誠を使い、裏から支え続けてきたパートナーたちだ。
「して、どう思う」
ドイルオが周りの男たちに質問を投げかけた。
「嘘偽りではないかと。そのような反応は見られませんでした。‥‥‥正直、五歳児だと聞いて見くびっていました。私の魔法を使う必要があるのかと。こんな突拍子もない話が嘘ではないだなんて」
まず初めに反応したのは、魔法使いのローブを羽織った薄紫色の髪を持つ女性だ。
「私も先に聞いていたが、ジェフがまじめな顔をして話さなかったら取り合っておらんよ」
「最初に見つけたのがジェフで良かったですな。それ以外の人間であったなら取り乱して、海竜とあの少年の命は無かったかも知れないですからな」
執事風の老齢の男が喋る。
「笛で海竜を操れるというのであれば、この国の情勢は大きく変わることになるだろうよ。それがあの子にとって幸か不幸かは置いておいてな」
ドルイオより筋肉質な、焦げた肌色の男は体に見合わず心配そうな眼をしている。
「で、あろうな。波乱が、大きなうねりが生まれるぞ。それに当たり私に一つ提案がある。皆の者、忌憚なき意見が聞きたい」
「今更ですよ」
「ですな」
「だな」
その短いやり取りだけで、この4人が気心の知れた仲だということが分かる。
「で、その提案ていうのがな――」
4人だけの秘密の会議は踊りに踊った。