“ピィイイイイ――”
海上に鳴り響く笛の音。
ほぼ同時に、巨大ガニたちは蛇に睨まれた蛙のように硬直する。
フォルの瞳は瞳孔を開き、その目は妖しく月光を反射する。
フォルの身体から丸みが削れ、角張りつつ、肥大化する。鱗はより硬く、牙はより鋭く、角が額から一対、王冠の如く格を象徴する。
★
その血に刻まれしは、海の覇者。
太古の昔より存在し、神と崇め奉られ、数千年。その歴史は受け継がれ、語り継がれ、やがて真となった。
人々が信仰を無くしても、その意識は継がれ、崇め奉る儀式は現代まで残っており、未だ神として存在する。
魔物として存在し、神となった。
海の覇者。本当の海竜。あまねく海の生物を統べるたった一体。
海神龍ヴァイアン・リトゥーダー。
いまも、どこかで悠々とどこかの海を泳いでいる。
可愛い我が子にこれほど純粋に、これほど純真に、これほど膨大な想いを渡してくれるなど。
久方ぶりの神職候補か‥‥‥
少し手伝ってやろう。それくらいは赦されるだろう。
★
フォルは目の前の巨大な蟹に噛みつく、牙は折れ欠ける。尻尾で薙ぎ払う、鱗にピシりと罅が入る。角から溢れる魔力は、その魔法を補助する。
その目には、ランデオルスの前で見せていた理性の欠片は無い。
海水は魔物たちの血で染まっていく。
次第に荒れていた波は落ち着きを取り戻す。巨大な蟹が一体、また一体と沈んでいった。
そして最後の一体が沈んだのちに、フォルは動きを止めた。
身体が崩壊していく、身体から漏れた魔力は空に帰っていく。
大きくなった身体のほとんどが崩れた中には、あの時の幼竜であるフォルがいた。
目を瞑り、波にプカプカと浮いていたフォルは、力なく目を開け、海中へ潜った。深く深く、何かを探すように。
ダイオット王国、ハバールダ辺境伯直轄領の港町。その砂浜にて。
「おい! 誰か冒険者を! 魔物だ! 魔物が人を襲ってる!!」
人々は身構え距離を取る。漁師の街で屈強な男たちは大きな声で慌てふためくことは無い。
「とりあえず警戒態勢だ! 槍砲船を持ってる奴は後ろから狙え!」
フォルは誰でも良かった人間であれば。
それが確認できた。フォルは口に咥えていたランデオルスを放し、顔で押し出して、「ぴぃ」と助けを請うた。
男たちがフォルのその行動に一瞬警戒を解いたのを確認してから、フォルは意識を落とした。
「おい、倒れたぞ! まずは小僧を海竜から離せ!」
「おい小僧は心停止だ! 人を呼んで来い! 海竜もまだ生きてる! 気をつけろよ! あと、人慣れしてるから槍砲船は待機しておいてくれ!」
男たちは忙しなく動き始めた。
「ケホッケホッ! おえぇ」
咳き込んで意識を覚醒させた。
バッと体を起こすと全身に痛みが走った。
「いっっっ!!」
目に涙が滲んだ。全身の傷が一気に沁みてきた。
「大丈夫か?」
その声に初めて自分の周りに人がいることに気が付いた。痛みはしばらくすると引いていき、周りを見ると屈強な男たち、色褪せたベットの上で俺は寝ていた。
「記憶は正常か? 痛むところはあるか?」
筋肉モリモリの男は、触れたら壊れそうな物を扱うように優しく尋ねた。
「うん、大丈夫……!! フォルは! フォルはどこ!? あ、フォルってのは海竜の子供の名前で、あいつのおかげで俺は生きてるんです! 知りませんか!?」
思いだした。奇跡的に俺が生き残っているのであれば、フォルだって――そうか。そのまま野生に戻った可能性だってあるのか。ていうかそっちの方が自然なのかもしれない。
まくし立てた俺は、野生化という可能性に気づき、ほぼ言い終わると同時に目を伏せた。
呆気にとられた様子の男は、ふと笑った。
「その海竜なら港の船小屋にいるよ。万が一のために見張りとかはいるけどな」
「会いたい! 会わせてください!」
身体の痛みを無視して、男に縋りついて懇願した。
「あぁいいぞ。その様子じゃ言っても止まらなそうだしな。ま、歩きながらでも話そうや。まずは自己紹介だな」
話を聞くと、男の名前はジェフというらしい。ここは港町で俺の見ていた大陸の街で間違いないようだ。さらにこの街の港の漁業組合のお偉いさんだそうだ。
そして俺はフォルに咥えられた状態で砂浜に打ち上げられ、一人と一匹は全身傷まみれだったそうで、即治療され、三日間寝込んでいたそうだ。
あーだこーだ話しているうちに例の船小屋についた。
小屋を開けてもらい足早に中に駆け寄ると、薄暗い中から海竜が顔を出した。
「フォル!」
駆け寄って膝をつきフォルの方へ身を乗り出した。
「ぴぃ? ぴい!」
俺だということに気が付いたフォルは、身体を水中からジャンプさせ、俺の方へ飛び込んできた。
「どわっ。危ないって、へへへ。舐めるな舐めるな。それにしてもお互い無事でよかったなぁ~」
ワシャワシャと撫でまわすとフォルも嬉しそうに目を細めた。
「それにしても、ちょっと痩せたか? あ、そういえば飯食ってないんだってお前? ちゃんと喰えよ」
「コイツぁ驚いたな。海竜ってここまで懐くもんだっけか」
持っていた銛銃を下ろしジェフが近づいてきた。フォルの身体は少し身構えるも宥めてやる。
「この人は大丈夫だ。落ち着け落ち着け」
「さっきも話したが、俺たちじゃ警戒して餌を食べやがらねぇ。お前さんからあげてやってくれ」
「はい、わかりました」
俺は頷いて、餌を準備してもらい、魚をポイっとフォルに投げると、美味そうに次々と平らげていった。