三日後、フォルの怪我はほとんど治っていた。腐っても魔物だ。その回復力には目を見張るものがあった。
一日目には完全に血が止まり、二日目は傷口が閉じ、三日目の今日、大きな傷跡を残しつつも、ほとんど問題なさそうであった。
「よし、じゃあ行こうか」
俺はフォルを強引に引き連れ、前日に見つけていた別の大陸の見える浜辺に来ていた。
元気になったフォルはやんちゃさを取り戻し、連れてくるのに一苦労した。
遊びたい盛りなのか「ついてきてくれ」を遊ぼうと感じたのか、身体にのしかかってきたり、逃げたりしてきたので、犬の散歩の訓練みたいに魚で釣って移動させた。
「とは言っても、どうやってフォルに連れて行ってもらうか」
ここまでは俺が先頭を歩いていたから出来たが、海の中で俺が先頭を泳ぎながら餌をやり続けるなんて芸当はまるでできる気がしない。
「う~ん、どうしたものか。フォル? 急に頭良くなって俺を背中に乗って、あの大陸まで行ってくれたりしないよな」
このアホの子をどうにかしてその気にさせる方法はないものか。
あれこれと悩ませていても、良い案が思いつかない。うとうろと砂浜に足跡が増えていくだけだ。フォルはそれを不思議そうに眺めているだけだ。
「そうだ! 気づかれるかどうか分からないけど、大きな狼煙で気づいてもらえないかな」
フォルに乗っていくよりも、近くの漁船でもなんでもいいが、たまたま通り掛ってもらえれば気づくような、目印を作るというのも良いんじゃないか?
しないよりはマシだろう。という訳で、早速たくさんの木の枝を集めに行こう。
おい、丸一日かかったって。重労働すぎるだろと愚痴をこぼしつつも、幸いにも辺りは暗くなり始めている。
一晩中燃やせるだけの木材は確保してある。夜中であれば、もしかしたら向こうの大陸からでも明るいのが見えて、異変に気付いた住民が、村長に報告して調査隊でも組んでくれるかもしれない。
「よし、着けるぞ」
俺は火魔法に適性は無くとも、一瞬だけでもおが屑に着火するぐらいはできる。あとは自然の法則に則り、火が回っていくのを待つだけだ。
少し離れたところで、フォルと一緒にそれを見守る。
「もはや火事だな。あとはこれが消えないように継ぎ足していけばいいだろう」
浴びる火の粉が頬を煤で色づける。
フォルは鬱陶しそうに、その身体のほとんどを海水に沈めている。
疲れているが、今日は寝ないと決めている。五歳児の身体でそれが出来るかが不安だが、前世ではその辛さを体験済みだ。
普段は好まない根性論をここで使うとしよう。
それは、火が炎となり轟々と燃え盛り始めた頃に姿を現した。
海水が波打ち、せり上がり、隆起した地面を破裂させるように、海の中から飛び出したそれは――
「蟹!?」
前世での一軒家ほどの大きさをほこる蟹であった。
その蟹は姿を現したと同時に、その口から激流の様な水泡を飛ばし、未だ天へと昇るような炎をかき消した。
「あ……」
俺の苦労、せっかくの生存の糸、別大陸の住人から見つけて貰えるチャンス。それが簡単に打ち壊された。
「こんな奴もいたのかよ」
もし、あのまま海に出ていれば、餌判定をされて何が起きているか分からぬままあの重機の様なハサミでイかれてたかもしれない。
思わず生唾を飲み込んだ。
蟹の目は複眼であり、動体視力、視野角に関しては人間をはるかに凌駕するが、視力自体はそこまで良くはないと聞いたことがある気がする。
もし、動かなければ? 生き残れる可能性も無きにしも非ず。
そんな憶測の答えは、直ぐにやってきた。
その計8本の脚を巧みに使い、こちらへと体を正面に向け、気持ち悪く蠢く口が止まった気がした。
――背筋に悪寒が走る。俺はフォルにタックルする様にフォルの首に捕まり叫んだ。
「走れ!」
フォルもハッとした表情で一目散に沖の方へ泳ぐ。
直後にダダダダダと響き渡る機関銃の様な着弾音。
先ほどまで俺たちがいた場所は、地面が丸見えになるほど海水がはじけ飛び、その威力を伺わせた。
背後から押し寄せる波に呑まれながらも、必死にフォルの首にしがみ付き、後ろを確認する。
自分の攻撃が外れたことを確認すると、巨大ガニはその大きなハサミを開閉して、「ガチン、ガチン」と何度も大きな音をたてた。
この島で何度も襲われた経験が俺の胆力を鍛えていたようだ。
まだ冷静でいられる頭で考える。……攻撃モーション、威嚇音? いや!!――
「仲間が来るぞ!! フォル! 海中警戒!」
警告音。嫌な想像をして、伝わるか分からないが、必死にフォルの下腹を足で蹴る。
フォルは下腹に意識が言っていたおかげか、海底から近づいてくる何かに気づき、咄嗟に避けた。
俺の首にかけている笛を掠っていくようにして、目の前に海中から大きな岩肌が水飛沫と共に現れた。
いや蟹のハサミだ。
危なかったと思いながら、急いでその場を離れる。
だが行く手を止めるように、進行方向にも海中から水柱が上がり、もう一匹巨大ガニが姿を現す。
「番いか?」
その言葉を否定する様に、もう一匹、また一匹と俺たちを囲うように何匹もの巨大ガニが姿を現した。
「格上にやってろよ……」
巨大ガニの狩りの手法に、思わず愚痴が漏れる。先ほどの衝撃で、内側が欠けたようで、笛の中で破片が転がった。
右へ左へ、波に乗り、波に吞まれ、口の中に海水が入ろうとも、塩気に勝る血の味。
フォルと俺に刻まれた傷の数々。それで済んでいるのは幸いなことだった。
巨大な蟹たちは、数の暴力で俺たちを襲い、後方から水泡撃、前方はそのハサミで行く手を阻む。
移動速度ではフォルが勝っているからこそのこの状況であった。
俺が足手まといだった。フォル一匹だけなら恐らく、もうすでに状況を打破して逃げ切っていることだろう。
“絶望的ではない”“もしかしたら逃げ切れる”そのことが、俺の掴む手を弛めることが出来ない。
意地汚い。自分が嫌になりそうだ。あーーーー、職場辞める時のこと思いだした! くそ! 嫌なこと思いだした!
集中が途切れた。
その瞬間に巨大ガニの攻撃からフォルが身を躱す。
「 あ 」
集中力かはたまた疲労による握力の低下か、傷だらけで体温低下が進んだか。
フォルの首元に回していた腕が、ズルっと滑り、俺の身体は宙に舞う。
身を放り出された。世界がゆっくりに見える。フォルはまだ俺が離れたことに気づいていない。巨大ガニの嫌な視線を強く感じる。
死にたくない。フォルは生き延びる! せっかく転生したのに! 俺がここであきらめれば‥‥‥。まだ生きていたい。意地汚く心中するくらいなら。誰かのためになったかな。
自己犠牲というよりは、ただの諦めだったのかもしれない。
俺は手を伸ばすことを止めた。
最後に何かフォルに出来ることは無いだろうか。たった数日だったけど、かわいいペットになってしまったこの子のために。
魔法は‥‥‥意味無いだろうな。
あの硬そうな甲殻には通用しなさそうだ。
あの子のために。
前世のペットと似てるな。あぁダメだ。あの子はあの子だ。失礼になってしまう。
だけど、前世でペットが亡くなってから毎日していた行為がある。
一日も欠かさずにしていたことが。
二十年以上か、毎日毎日。祈り続けた。
朝起きたとき、通勤電車の中、ランチを食べているとき、どんな時でもふと思いだせば、いつでも。
だからだろうか、誰かの未来を真摯に想うことは容易にできる。
それが似ている想いを持つあの子なら猶のこと。
だから祈る。一番元気な姿を。幸せな未来を。
あの宴で見た、雄々しい海の覇者たる海竜の様な未来を。
その後、何故そんなことをしたかは分からないが、壊れた笛を吹いた。
“ピィイイイイ――” “ジャバンっ”
笛の内側で欠けた破片が、その音を鈴のような音色に変え、吹いた直後にはその身を海に沈めた。
笛の中に入ってくる海水が笛の音を邪魔する。
真っ黒な海の底へ、水面の方は月の光で薄っすら明るい。
もう、藻掻く力も、ない。