母親エブリンが、マーヤに静かに優しく声をかける。コックは気付かなかったが、メイド達の集団の中に一人の女性が――看護師が混じっていた。エブリンがその看護師に声をかけ、頷くとマーヤの腕の点滴を外して、点滴スタンドを片付けていく。
それからもう一人、ローブを着た女性が前に出て来た。今度は何だと思いながら黙って見ていたら、ローブの女性がマーヤの額に手をかざすようにして、何やら呪文のようなものを唱え始める。
誰にでもわかりやすいように首を捻るコックに、夫妻が説明した。
「マーヤはいつその命が尽きてもおかしくない状態なので、こうして医療と魔術――その両面からサポートとして、看護師と魔術士を常勤させているんだ」
「看護師のメイには栄養剤の点滴や、マーヤの健康状態を診てもらってます。魔術士のエイプリルには、眠りの魔法を必要なタイミングでかけてもらっています」
「眠りの魔法?」
看護師はわかる。だが病人に魔術士が必要な理由がわからない。
オウム返しのようにコックが訊ねると、それにはエイプリルが答えた。
「初めまして、私はギルドから派遣された魔術師エイプリルです。マーヤさんに施している眠りの魔法、スリープについてですが。いきなりで失礼ですが、動物の熊やリスがなぜ冬眠するのか、ご存知ですか?」
「は? 知らね。寒くて動きたくないからだろ?」
ぶっきらぼうに答えるコック。それがマーヤの状態と何の関係があるのか。
「それも正解です。冬眠をする最大の理由は単純明快、生き延びるためなのです。冬の間、餌を確保するのが難しい中で生き延びるために、極力動かないようにする。そうすることで身体の消費エネルギーを抑え、春が来るのをじっと待つのです。マーヤさんの場合、人間は冬眠する生物ではないので、自らの力で眠り続けることは困難。ですから魔法の力で強制的に眠らせ、そのエネルギー消費を抑える。そうすることで、少しでもマーヤさんが生き長らえるように、私達は尽くしています」
エイプリルの説明を聞いて、エブリンが鼻をすする。これまで長く辛い時間を過ごしてきたのだろう。その感情があふれて、堪えられずに涙したエブリンを、そっと抱き寄せて宥めるロイド。
娘がいつ死んでしまうのかわからない、という恐怖を。
家族は実に六年間も……。
「で? 冬眠は解いたのか?」
「えっ、はい。先ほど魔法を解除しましたから。もう意識を取り戻しているはずです」
魔術師エイプリルがベッドから離れて、代わりに涙でぐしょぐしょになっているエブリンが声をかけた。
いつものように静かに、優しい囁き声で、少しの刺激もマーヤに与えることのないように。
「マーヤ、起きた? 起き抜けで辛いでしょうけど、『究極シェフ』のギフテッドを持つコックさんがね。マーヤだけのためにって、特別な料理を作ってくれたのよ。ほら、体を起こせるように背中側にクッションを置きましょうね」
そう言うと、準備していたメイドが厚めのクッションを持って待機する。ロイドがマーヤを抱き起こし、マーヤの背中とベッドの間にクッションを置いて、それにもたれ掛かるとマーヤは何年かぶりに座る姿勢を取ることが出来た。
「長くは保たないかもしれない。マーヤの体は筋肉が衰えすぎている。骨も弱い。座っただけで体にどれほど負担がかかるか」
「わかったわかった。そんじゃ、まずは……そうだな。断食した後に最初に口に出来る胃に優しい、これから食べてもらおうか」
コックの指示通りに、まだ温かさを保っている食事がマーヤの口に運ばれる。
両親を始め、この部屋にいる者全員が、その様子を食い入るように見守った。
***
「これで最後か……」
世界各国の料理を出してきた。どれも胃に優しいものばかりだ。だがここまで来て惨敗だった。
マーヤは小さじ程度の量を口の中に入れただけで、拒絶反応を起こすように吐き出してしまう。ただでさえ顔色が悪いというのに、さらに真っ青になるまで食事は続けられた。
一旦やめようと口にするコックだったが、もしかしたら次は大丈夫かもしれない、と両親が急かす。次の料理で復活するかもしれない。次なら――。
そう言い続けて、残り最後になってしまった。
マーヤも辛そうな表情で、目にわずかな水滴が浮かんでいる。それでも本人が望んでいるのか、首を振って拒絶することなく、口を開けて待ち構える。少女の意思に負けて、コックは吐き出され続ける自慢の手料理の、残り最後をマーヤの口に運んだ。
「うっ……、おえぇっ!」
やっぱりダメだった。どれも全く同じ反応だ。
骨と皮だけの細い手で、マーヤは口元に手を当てて、激しく咽せる。そして吐き気を催していた声は、涙声に変わっていた。
エブリンは泣き崩れ、ロイドもまた全員に背中を向けて肩を振るわせる。
部屋の中にいるメイドや看護師、魔術師の咽び泣く声が、部屋中から聞こえてくるようだった。
(おかしい――)
コックは口元に手を当てて考える。思い出す。これは異常だ。そう直感した。
(俺のギフテッドは、本人がアレルギーとかで命の危険を伴わない限り、どんなに不味くて大嫌いな食材でさえも、極上の美味に感じさせる力のはず。こんなことは初めてだ。何を食べさせても、まるで全ての食材にアレルギーを持っているみたいに……)
ふと、記憶が蘇る。ボナペティ家へ向かう前に、コックの恩人でもあるグロモント伯爵から聞いた言葉を……。
『万に一つもないとは思うがね。もし万が一究極シェフの力を以ってしても、そのガールがボーイの料理を口にすることが出来なかった場合を、想定してみた』
今までそんなことは一度もなかったが、伯爵は懸念していたのだ。
コックはあり得ないと思いながら聞き流していたが、記憶を辿ると確かに伯爵はこう言っていた……気がする。
『もしボーイの料理、その全てを拒絶した時には……こう疑ったらいい。ガールの症状は病気ではなく、何かの呪い……だとね』
そう言って、伯爵は一冊の本をコックに託した。
ハードカバーの表紙には、怪しげな魔法陣が描かれている。パラパラとページをめくった限り、ただの本だった。
リュックの中に、その本が入っている。
(呪い? まじか……。俺、そういう類のこと全然わかんねぇぞ)
ベッドの上で咽び泣いて苦しむ少女。
慌てて看護師のメイが状態を安定させるために、メイドからコップ一杯の水を受け取って、マーヤの口に含ませる。それをバケツに吐かせて、口の中を洗浄していった。
エブリンが絶望のあまり泣きじゃくるので、ロイドが「失礼」と言って一緒に部屋を出て行ってしまった。
マーヤを安静にさせるために、必要な者は部屋に残って看護師のサポートをし、それ以外の者は邪魔にならないように泣きながら出て行く。
少しばかり安定したマーヤにエイプリルが、再びスリープの魔法を施して眠りに誘う。
ガリガリに痩せ細った少女の姿が、自分と重なる。
食べられない辛さは、身に染みてわかる。
「お腹一杯、美味いもん……食べさせてやっからな」
『召喚の儀式は、満月の夜に行なうがいい。私の計算によれば、ボーイがボナペティ家に到着する、その日がちょうど満月の晩だ』