物議を醸した大公夫妻の肖像画だが、残念ながら最終的には形式に則ったものが採用されることになった。
当時はまだ貞操観念というものが広く社会に存在していて、流石に大公ご夫妻が大っぴらに口づけを交わそうとされているお姿は若い令嬢には刺激が強すぎるから、というのが理由であった。
この決定に国王陛下は声を上げてお笑いになり、王后陛下は憤慨し、大公殿下はいつもの如くかすかに口の端だけで微笑まれ、妃殿下はほっと胸を撫で下ろされた。
だがいつの間にか王宮の肖像画の間の隣に小さな空間が用意され、そこには国王ご夫妻と大公ご夫妻の私的な絵姿が多く飾られるようになった。
そしてその部屋は王宮美術館の中で最も人気のある部屋となったのである。
フィッツジェラルド大公家には、多くの家族の肖像画が残されている。
四男三女と子宝に恵まれた初代大公、ローレンス王弟殿下は家族が増える度に全員を一堂に集め、その歴史をカンヴァスに写し取らせた。
もっともその構図は常に同じで、彼が生涯変わらぬ愛を捧げた偉大なるリリアーヌ大公妃を中心に子供達が集まっており、大公ご自身はいつも大きな身体を心なしか縮めるようにして一番端にひっそりと立っておられるというものだったのだが。
そんなフィッツジェラルド大公夫妻それぞれを描いた、一風変わった肖像画がある。
大公の肖像画には、背景は何もない。
闇の中から浮かび上がるように、殿下は革張りの肘掛け椅子に斜めに腰掛け、右足を曲げて左の膝にのせている。
ほとんど飾りのない黒
しかし、右足の膝に添えられた左手の薬指には王室の紋章が刻まれた金の幅広の指輪が嵌められていて、さりげなくこの男性の選ばれた高貴な出自を物語っている。
大公殿下は椅子の背もたれに斜めに身を預け、右手を曲げて手首で後頭部を支えている。その指先に挟まれているのが高価な葉巻ではなく、当時市民階級に普及しかけていた細い紙巻き煙草であることも、お人柄を語る重要なモチーフだ。
そして殿下はこちらに濃い灰色の瞳を向けられている。銀灰色の髪がかかるお顔を斜めにして、その左頬の大きな赤黒い傷痕を隠そうともせず。
あたかも考え事の最中に声をかけられてふとこちらに向けたようなその視線は見る人を惹き付けて離さない。そこにあるのは尊大さと威厳と、全てを手に入れた男が放つ絶対の自信……すなわちゾクゾクするような色気だ。
それに対をなす大公妃の肖像画は一転、どこまでも明るい。
妃殿下は午後の陽射しが差し込む部屋で、ほぼ横を向いて椅子に腰掛けられている。サーモンピンクの光沢のある絹のドレスに身を包み、波打つ豊かな黒髪はドレスと同じ色のリボンでゆるく纏められて、背中に流れ落ちる。
耳元の真珠の耳飾りと、左手の薬指には大公殿下と同じ、王室の紋章が彫られた金の指輪。装身具はその二つだけだ。
妃殿下の視線は横にある作業台に置かれた大きな刺繍枠に向けられている。そこに張られた薄い絹地には草花を紋様化した図案が描かれている。そして今まさに刺繍針を刺した瞬間が描かれている。
刺繍枠の横には色鮮やかな絹糸の束。茶色い子猫がその束をおもちゃにしようと手を伸ばしているが、妃殿下の灰緑色の瞳には微笑みが溢れ、全く気にされていない。その繊細な手仕事に没頭する様子を、斜め上にある格子の嵌った窓から降り注ぐ光が包み込んでいる。
二枚の肖像画は構図も色使いも明るさにも一切共通点はないのに、なぜか見る度に二人の間に流れる同じ空気を感じるのだ。
ご夫妻のお気に入りとなった女流画家、フランチェスカ・ドニゼッティが描いた、当時としては革新的であったこの一対の肖像画をお二人は大層気に入り、領都の居城の玄関ホールにある正面階段の突き当たりの壁に飾られた。
また、公務や視察で不在にすることが多かったフィッツジェラルド大公は、愛する妻の日常の一コマを切り取ったこの肖像画を、同じ構図で掌に収まるサイズの細密画にして、常に肌身離さず持ち歩いた。
地方での忙しい日程を終えられた大公殿下が、夜更けに宿泊先で一人お茶を味わいつつ、その細密画にそっと愛おしげに口づけをされるお姿が、何度も側近達に目撃されている。
殿下の胸ポケットでその人生を見守った一枚の小さな絵は、やがて訪れた大公の旅立ちの日に、妃殿下自身のお手によって
そして妃殿下は未亡人となられた後、居城の私室に夫の肖像画を飾られ、日に幾度となくその姿に触れたり語りかけたりして過ごされた。
大公家を継いだ長子ギルバート殿下の回顧録にその様子が記されている。
『母の居室の前を通りかかると、父の肖像画の前に立っている姿を良く見かけた。彼女は父の絵姿に愛おしそうに触れては、ねえ、ローレンス、と優しく語りかけていた。
その瞳は潤んで熱を帯び、声はどこまでも甘く切なかった。
そこにいるのは偉大な大公妃でも七人の子の母でもなく、どこにでもいる恋する一人の乙女だった。
私は、こんなにもお互いを想い合う両親のもとに生まれたことに、常に深い喜びと感謝を感じている。』
〈外伝1 完〉