「ああ……それにしても今日は暑いな。窓を開けてくれるか」
「かしこまりました、大公殿下」
侍従が庭園に面した窓を開けると、風に乗ってライラックの香りが漂ってきた。
王宮の一室に置かれた大きなカンヴァスの前に立つフランチェスカにもその香りは届いている。
だが今の彼女には初夏の華やいだ陽気を楽しむ余裕は全くなかった。
(怖い……)
彼女の目線の先に立たれているのは、王弟ローレンス・フィッツジェラルド大公殿下とリリアーヌ大公妃殿下。つい先月、国王陛下が腹違いの弟君の存在を明らかにされ、大公に叙されたお方だ。
王族のご夫妻には正式な肖像画が必要となる。これは王宮の肖像画の間に飾られるもので、ほとんどは当代の美術界の重鎮と呼ばれる画家の手によって描かれる。
だが十日ほど前フランチェスカの元に突然、王弟殿下の肖像画の描き手に選ばれたとの報せが届いた。フランチェスカはこれは何かの間違いか、最近流行りの詐欺だと思った。アカデミーを卒業したばかりで美術展に入選したこともなければパトロンになってくれる貴族様もいない、そんな私がなぜ、と。
実はアカデミーにいた頃の担当教授が、フランチェスカに黙って彼女が描いた人物画を王宮の事務官に送っていたということを知っても、まだ半信半疑だった。
だから今日も、本当は教授が描き手に選ばれて、自分は手伝いに回るのだとばかり思い込んでいた。だが侍従に先導されてこの部屋に入って、目の前の椅子にお二人がお掛けになっているのを認めた時、そして教授がどこにもいないことを理解した時、フランチェスカは文字通り卒倒しそうになった。
「お、お、お初にお目にかかります。フランチェスカ・ドニゼッティと申します。この度は身に余る光栄な機会を賜りまして……」
「挨拶はそれぐらいでいい。早く始めてくれ」
(ヒッ……!)
明らかにご機嫌麗しくなさそうな低い声に足がすくむ。やはりお噂通りの冷酷で恐ろしい方なのだろうか。ああ教授、要は
「殿下、怖がっていらっしゃるじゃありませんか。……ドニゼッティ様、お顔をお上げになって? そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですから」
「お、恐れ入ります、妃殿下……」
頭を下げたままぶるぶると震えていたフランチェスカは、たおやかで優しいお声に勇気づけられて恐る恐る顔をあげた。
(まあ、近くで拝見するとお噂以上にお美しい方だわ……)
「急なお話でびっくりなさったでしょう? 貴女の絵、拝見させて頂きましたわ。わたくし達二人ともすっかり魅了されてしまって、是非貴女に肖像画をお願いしたいと思いましたの」
「お、畏れ多いことでございます。私などまだアカデミーを卒業したばかりの新参者で……」
「
どう考えても早く終わらせたがっている大公殿下のご様子にフランチェスカは覚悟を決めた。
「では殿下、妃殿下、まずこちらにお立ち下さいませ」
「この位置でよろしいかしら、ドニゼッティ様?」
「結構でございます、妃殿下。それから僭越ではございますが私のことはどうかフランチェスカとお呼び下さいませ。
「分かりました、フランチェスカ」
「恐れ入ります」
だが当然のことながら、事態は遅々として進まなかった。
今回の肖像画は王室が公式に国民に向けて発表するものなので、大きさや構図が厳格に定められている。そのため同席している宮廷府の事務次官がいちいち細かく口を挟んで来るのだ。
殿下、もう少し真ん中へ……ああそれでは寄りすぎでございます。妃殿下、目線をこちらに、口角をお上げ下さい。結構でございます、そのまま。殿下、爪先は真っ直ぐ揃えて頂けませぬか、それから……もう少しだけお顔を左に向けて……その……
「顔を左に? 何だ? 言いたいことがあるなら言え。この傷痕か? これが絵姿に残ると何か都合が悪いのか?」
「……! いっ、いえ!滅相もございません! ただ……」
「……殿下、お声が」
一瞬でその場にいた全員が静まり返る。
(止めてえ、事務次官様……それは言っては駄目でしょ……)
フランチェスカの背筋を冷汗が流れ落ちた。
「なあ、これはいつ終わるんだ? 私はいつまでこの馬鹿げた大礼服とやらを着て突っ立ってなきゃならんのだ?」
「……殿下」
妃殿下が宥めるようなお口ぶりで助け船を出して下さるが、あまり効き目がないようだ。
「も、申し訳ございません!」
怖い……
「だいたい私は肖像画なんぞ描いてほしいと言った覚えはないんだが。誰がわざわざ私の顔など見たがる? 何なんだこの茶番は、馬鹿馬鹿し過ぎて笑う気にもならん」
「申し訳ございません……今しばらくのご辛抱を……」
殿下の口調はあくまで冷静で、それが却って恐怖だ。いつ爆発されるか……
怖い怖い怖い……
その時。
「ロー、レン、ス」
妃殿下が殿下に向かって静かな良く通るお声でゆっくりと名前を呼ばれた。その瞬間、侍従も侍女も一斉にあ、という顔で固まった。
(な、何?)
フランチェスカは後で知ったのだが、実はこれは侍女曰く、『大公妃殿下の最終兵器』らしい。
妃殿下はとても淑やかで慎ましいお方なので、人前では必ず夫君を『殿下』とお呼びになる。だからそんな妃殿下が
つまり、『皆さんがお困りでしょう? これ以上我儘を仰るならお仕置きいたしますわよ?』という意味で、これが出るともう大公殿下は手も足も出ないらしい。
果たして殿下は妃殿下のそのお声を聞くや否や直立不動の姿勢を取られ、こうお答えになった。
「はい、ごめんなさい。もう言いません」
「殿下ならわかって下さると思ってましてよ」
妃殿下はニッコリとお笑いになると振り返って皆に仰った。
「わたくしも少し疲れましたわ。皆さん、一度休憩にいたしませんこと? 」
そのお言葉に全員がホッと息をつき、侍女がいそいそとお茶の支度を始めた。
大公殿下は一瞬まだ何か言いたそうなお顔をされたが、静かに首を振ってその場を離れ、窓のほうへ向かわれた。
凍りつきかけたその場の空気を取り戻すかのようにざわめきが広がる中、そのお姿の周りだけ風を纏うようだ。
それにしても、とフランチェスカは改めて思う。
(不思議な方……)
殿下は開いている腰高窓の窓枠にお尻を軽く乗せて寄りかかり、長いおみ足を斜めに床に投げ出されている。大礼服の詰襟のホックと胸元の金ボタンを二つほど外されて、隙間から下にお召しの白い麻のシャツが覗いていた。山羊革の手袋は上着の胸ポケットに突っ込まれ、真紅の剣帯と儀礼用のサーベルも外して脇のテーブルに無造作に置かれている。それだけ見ると凡そ王族のご身分に
(絵描きの私が言うのもアレだけど、自然になさっているだけなのに何故か全てが
フランチェスカはつとデッサン用の厚紙と木炭を手にしてそのお姿を写し取り始めた。殿下は左を向いて風に当たっていらっしゃるので、傷痕のない右側のお顔しかこちらからは見えない。銀灰色の髪が軽く風になびき、濃い灰色の目は光の当たり具合によって時々不思議な紫みを帯びる。フランチェスカはとうの昔に実は大公殿下が大層端正なお顔立ちをなさっていることに気づいていた。
(きっとあの傷痕がなければ、
殿下に気付かれないよう手早く腕を動かしていると密やかな衣擦れの音がして、妃殿下がすっと大公殿下に近寄られた。
「殿下、お茶を」
「ん」
(あらあー)
目ざといフランチェスカは見逃さなかった。カップを受け取られる瞬間、殿下のお顔がふっと緩んだのを。
そのままお二人は窓際で何か会話をなさっている。妃殿下は殿下の肩ぐらいまでしか届かないのでどうしてもお顔を上げて爪先立ちのような体勢になってしまう。するとその度に殿下が身を屈めて妃殿下のお顔近くに耳を寄せられるのだ。そしてうんうんと頷かれたり、え、そうなのか? と驚く素振りをされたり、またある時は目線を天井のほうに向けてうーんと何かお考えになったり。
(あらあらあらー)
フランチェスカの芸術家としての本能が目覚めた。忙しなく手を動かす。
お二人の会話が所々聞こえてきた。
「また手袋をそんなところにお入れになって。ポケットが皺になってしまいますわ」
「ポケットは物を入れるところだから構わんだろ?」
「いいえ構います。もう、子供みたいなことばかり仰って」
「貴女の前だと我儘が言いたくなるんだよ」
(ちょっとちょっと、何この甘々な空気は……)
聞いているこちらが恥ずかしくなりそうだ。これが先程までの大公殿下と同じ方?
だがそこへ侍従が遠慮がちに近寄って声をかけた。
「畏れながら大公殿下、そろそろ……」
「分かった。すぐに行く」
軽く振り向いてお答えになった瞬間、王族としての近寄り難い表情に戻られるのは凄い。
殿下はティーカップをテーブルに置かれると大きな手で上着のボタンをはめ、襟のホックを留められた。ゆっくりと動く長い指がなんとも
身支度を終えられた殿下の胸元に妃殿下が手を伸ばされ、斜めになってしまったいくつかのバッジを真っ直ぐに直される。
最後に山羊革の手袋を嵌められた大公殿下が妃殿下の頬に触れ、そのまま耳元で何か囁かれると、妃殿下のお顔が困ったように赤くなった。
次の瞬間、フランチェスカはとんでもないものを目撃してしまった。
(き、きゃあああーーーーー!)
何ということだろう、大公殿下は辺りを見回すと、素早く妃殿下の唇に口づけされたのだ。皆の隙を突いて、甘く、熱く。
フランチェスカは必死で叫び声を押し殺すと、木炭を握る右手に全神経を集中させた。
(もしかして私、とんでもないお宝を手に入れてしまったかも……)
妃殿下の上気した頬と、殿下を見つめる
そしてその日、作業を終えて退出のご挨拶を申し上げようとしたフランチェスカをまたしても驚かせる出来事が待っていた。
「殿下、フランチェスカ様に何か仰ることがおありでしょう?」
妃殿下にさりげなく水を向けられた大公殿下が、ばつの悪そうなお顔でこう仰ったのだ。
「……怖がらせてしまっていたならすまない。その……私は気が短いのとこの大礼服とやらが大嫌いでね。貴女に対して怒っていた訳ではないから、気にしないでもらえるとありがたい。無礼を許してもらえるだろうか」
「と、とんでもないことでございます陛下! 今日は暑うございましたし……私のほうこそ長時間お引き留めしてしまい、お詫び申し上げます」
フランチェスカが思わず胸の前で両手を振ってお答えすると、殿下はふっと笑みを漏らされた。
「それが貴女の仕事なのだから、構わないよ。……ああそれと肖像画だが、私の顔はどうでもいいから、そのぶん大公妃の美しさを寸分違わず描いてくれ。仕上がりを楽しみにしている」
「……殿下、ほどほどに」
(何これ素敵過ぎる……)
フランチェスカは感激のあまり、どうやってお二人の前から退がったのかよく覚えていないほどだった。
今朝、廊下ですれ違いざまに立ち話をした宮廷勤めの友人に言われたことの意味がじわじわと理解できた。
彼女は意味深に笑ってこう言ったのだ。
「まあ、フィッツジェラルド大公ご夫妻にお目通りするの?……良いこと教えてあげるわ。フランチェスカ、貴女結婚したくなるわよ、ふふ」
(確かに結婚したい。私、今猛烈に結婚したい。あんな素敵な旦那様と暮らせるのなら)