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第52話 笑いなさい

「上出来よ、リリアーヌ」


 ユージェニーに声をかけられて、ようやくリリアーヌはほっと息をつくことができた。

「恐れ入ります、陛下。陛下のお力添えでなんとか無事にやり遂げることができました。お礼申し上げます」

「よく努力したわね。どこから見ても非の打ちどころのない大公妃でした。わたくしも鼻が高いわ」


 大公位叙爵の後、万歳の声と拍手に見送られながら広間を後にした二組の夫婦は、王宮前の広場を見下ろす部屋で束の間の休息を取っていた。


「大公妃、お腹は空いてないかい? 今日は朝早かっただろう?」

 国王レオが声をかけると、テーブルに軽食が並べられた。

「恐れ入ります、へい……」


「お、に、い、さ、ま、だ」


 全く面倒臭い人だ。

「お気遣いありがとうございます、お義兄にいさま。でもなんだか胸が一杯で……」

「少しでも口に入れておいたほうが良いぞ。今日は長丁場になる」

 そう口を挟んだローレンスがチョコレートをリリアーヌの顔のそばに持って行く。

「ローレンス、自分で食べますから……」

「まあいいじゃないか」


 そんなローレンスの様子をレオがニヤニヤしながら眺めていた。

「全く、恋をすると人間かくも変わるものか」

「お言葉ですが兄上、恋はものではなくもので……」

「……ローレンス、お願いだからもうそれぐらいにしておいて頂戴」

 リリアーヌはそう言って夫の暴走を止めた。


 だが確かに今日はまだ始まったばかりだ。この後は国民に向けた大公夫妻のお披露目がある。国王夫妻と一緒にバルコニーに出て、集まった民衆からの祝福を受けるのだ。そして夜は祝賀晩餐会に舞踏会と、予定が目白押しだ。


 その時、後ろの扉が開いてパタパタと足音がした。


「おかあたま!」

 その声にユージェニーが立ち上がり、満面の笑みで両手を広げる。飛び込んできたのは第一王子だった。

 即座にローレンスとリリアーヌが立ち上がって跪く。

「ろーれんちゅ! ろーれんちゅだ!」

 王后陛下に抱きしめられてから、今度はローレンスのほうに走ってくる。が、突然立ち止まると首を傾げて目の前の大男をまじまじと見つめた。

 レオが笑ってリリアーヌに話しかける。

「大公妃、紹介するよ、王太子クリストファーだ」


 だがクリストファー王子はリリアーヌそっちのけで不思議そうにローレンスを指差した。


「ろーれんちゅ、どうしてきょうはそんなおとうたまみたいなふくなの?」

「ご機嫌麗しゅう、王太子殿下。私のこの格好が不思議ですか? 無理もありませぬが」

「クリストファー、今まで黙っていたけど実はローレンスはね、お父様の弟なんだよ。今日から大公殿下になったから、これからは叔父様とお呼びしなさい。いいね?」

「ええー、ろーれんちゅはろーれんちゅだよ! そうだろう?」

「仰る通りです。私はいつでもローレンスですよ。殿下、良い子にしていらっしゃいましたか? お勉強は進まれましたか?」

「うん! ぼくね、かずがかぞえられるようになったんだよ。いち、に、さん……」

 リリアーヌは驚いた。ローレンスが小さな子供に接している姿を見るのは初めてだ。その顔はどこまでもにこやかで瞳には優しさが溢れている。


 するとローレンスにたどたどしく話しかけていたクリストファー王太子がふとリリアーヌに視線を移した。

「おかあたま、このひとだれ?」

「この方はリリアーヌ叔母様、ローレンスの奥様ですよ。クリストファー、ご挨拶なさい」

 だが王太子は頭を振ってこう言った。

「うそだあ、ろーれんちゅのおくさんがこんなにきれいなひとのはずないよ!」

 レオがぷっと吹き出した。


(なんと愛らしい……)

 リリアーヌも思わず笑顔になると、目線をクリストファーと同じ高さにして微笑みかけた。

「お初にお目にかかります、王太子殿下。リリアーヌでございます。わたくしも不思議なのですが、なぜかローレンスはわたくしの夫なのですよ。ですからこれからはわたくしとも仲良くして下さいますか?」

 するとクリストファーはしばらく首を傾げて考えていたが、やがてにっこり笑ってこう言った。

「うん、いいよ! だってりりあーにゅ、とってもきれいだもん!」

 その場にいた全員がどっと笑い声を上げた。


「なんてお可愛らしい王子様でしょう、王后陛下」

「わたくしの宝物よ。レオの小さい頃にそっくりなの」

「まあ」


 そんな言葉を交わしていると、侍従長がレオに近寄って言った。

「陛下、広場に民衆が溢れかえっておりまして、もう皆待ちきれない様子です。畏れながらお出ましを少々早めて頂けますと……」

「だそうだ。どうするローレンス?」

 ローレンスとリリアーヌは顔を見合わせると頷いた。

「兄上の良きように」

「そうか」

 確かに窓の向こうから抑えきれないざわめきが聞こえてくる。


 レオが侍従長に告げた。


「いいだろう。では参ろうか」

「ありがたきお心遣い、痛み入ります」

 そう答えると侍従長は窓の両側に控えている侍従に向かって右手を上げた。それを合図にバルコニーへの窓が開け放たれると、民衆の歓喜の声が流れ込んできた。


 クリストファーを抱いたレオとユージェニーが歩を進める。少し遅れてローレンスとリリアーヌがバルコニーへ出ると、怒涛のような歓声が上がった。


「すごい……」

 リリアーヌは思わず息を呑んだ。


 そこにいたのは人、人、人。

 王宮前の広場を埋め尽くした民衆が皆口々に叫んでいる。


「大公殿下ー! 大公妃殿下ー! おめでとうございます!」

「王様ー! 王様ー!」

「ユージェニーさまあー!」

 レオとユージェニーが慣れた様子で手を振ると、また歓声が大きくなった。


「さあ大公妃、貴女も皆に手を振って」

 レオに促されてリリアーヌが控えめに手を振ると、広場はひときわどよめきと歓声に包まれた。感激のあまり泣いている人もいる。


(こんなに沢山の人々が、わたくし達のために集まってくれた……)


 思わずリリアーヌの目から涙がこぼれそうになった。だがその時ユージェニーがリリアーヌの耳に顔を寄せてしっかりした声で囁いた。

「王族は人前で涙を見せてはなりません、リリアーヌ。笑いなさい。貴女の微笑みが皆を幸せにするのよ。忘れないで」

「はい、王后陛下」

 リリアーヌは気持ちを落ち着けると、広場に向かって精一杯の笑顔を向けた。するとキャーッという歓声が上がった。


 その時リリアーヌは群衆の中に、とりわけ大きく手を振っている一群を見つけた。

「ローレンス、あそこ」

「ん?」

 リリアーヌの視線の先にはよく知っている顔があった。


 コンスタンティン、アラン、エルヴィン、アビゲイル夫妻、シルヴィア、それから商会の人達……リチャードの姿が見えないのは残念だが、きっと仕事が忙しいのだろう。

 皆ローレンスとリリアーヌに気づいてもらおうとちぎれるほど両手を振り、商会の若い連中などは庭園に置かれた大きな石造りのプランターの台座によじ登って、軽業師のような体勢で帽子を振り回している。

 今日は国王陛下のお達しで祝日となっているから、ローレンスに業務を止めるなと言われる心配はないだろう。


 長身の大公殿下が小柄な妃殿下のほうに体を屈めて言葉を交わす。その仲睦まじい様子を目のあたりにした群衆がまた歓声を上げた。


「皆さん来て下さったのね」

「あいつら……」


 ローレンスは苦笑して顔を上げると、彼らだけにわかるよう視線を向けて、軽く右手を上げた。

 アランが目元を押さえ、コンスタンティンがいつものように飄々と笑っているのが、リリアーヌにははっきりと見えた。



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