「おやおや、随分とすっきりした顔をしてるな、ローレンス?」
レオの軽口に、頭のてっぺんからボン! と音が出そうなほどリリアーヌの顔が赤くなった。
「兄上、下品です」
「いででっ!……何をする、ユージェニー!」
ローレンスが低い声で諫めるのと同時に、レオが叫び声を上げた。横に座っていたユージェニーがレオの腰のあたりを思いっきり
「貴方は! どうしていつもいつもそう下らないことばかり仰るの!? リリアーヌが困っているではありませんか! そもそも結婚式の翌日に呼びつけるなど、どうかしてますわ!」
「だって仕方ないじゃないか、式に出席できなかったんだから……そんなに怒らなくたって……」
「お、王后陛下……」
腰をさすりながら拗ねたような様子でユージェニーにぶつぶつと逆らうレオの様子に焦ってリリアーヌが声をかけようとしたが、ユージェニーの怒りは収まらない。
「貴方もよ、ローレンス!」
「わ、私が何か?」
今度は矛先がローレンスに向かった。
「貴方いったい
「え?」
「え? じゃないでしょう! リリアーヌを御覧なさい、目を開けているのがやっとよ! 貴方はリリアーヌを殺す気ですか!?……もういいわ、リリアーヌ。隣の部屋に寝椅子があるから、貴女はそちらで休んでなさい。こんな時に申し訳なかったわね。レオに代わってわたくしが謝罪します」
「え、いえ、王后陛下、わたくしなら……」
「いけません、これは命令よ。さあ早く行って。このお馬鹿さん二人はわたくしが存分に絞めておきますから」
リリアーヌは恥ずかしさと申し訳なさのあまりまさに穴があったら入りたかったが、負担にならない形で自分のことを思いやってくれたユージェニーの心遣いが有難かった。実を言うと、もう真っすぐ歩けないほど疲れ切っていたのだ。
「お心遣いに感謝いたします、王后陛下。それではお言葉に甘えさせて頂きます。国王陛下、
やっとの思いでそれだけ言うとリリアーヌはよろよろとお辞儀をし、隣の部屋に下がった。ドアを閉め、寝椅子に倒れ込むと、すぐに眠気が襲ってきた。
「その……すまなかったな、ローレンス。私の配慮が足らなかった」
「貴方が謝らなければならないのはローレンスではありません。リリアーヌにです」
ユージェニーにぴしゃりと言われて、レオがますます小さくなる。
「結婚式と初夜が女性にとってどれだけ緊張するものか、貴方がた殿方にはお分りにならないでしょう。ましてやリリアーヌはこの後宮廷に入るのですよ。あの細い身体でその重圧を背負うのがどれほど大変か」
「……」
「何とか言ったらどうです、ローレンス・フィッツジェラルド?」
「……面目次第もございません、王后陛下」
ぐうの音も出ないローレンスは平身低頭するしかなかった。
一時間ほど眠っただろうか、リリアーヌはすっきりとした頭で目覚めた。
寝椅子から立ち上がり、洗面台に置かれた水差しの冷たい水で顔を洗い、うがいをしてから鏡の前で服装を改めていると、ドアがノックされた。
「リリアーヌ、入りますよ」
ドアを開けて入って来たユージェニーにリリアーヌは深々とお辞儀をした。
「調子はどう? 顔を見せて。……ああ、だいぶ良くなったみたいね。良かったわ」
「王后陛下、ご心配をおかけして申し訳ございません。陛下のお心遣いのお陰でゆっくり休めました。こんなにぐっすり眠ったのは久しぶりでございます」
ユージェニーはリリアーヌが心底気の毒になった。本心では大公妃になどなりたくないだろう。大富豪ローレンス・フィッツジェラルドの妻としてだけでも十分過ぎるほど幸せに暮らせるだろうに、敢えて自分から宮廷の荒海に飛び込もうとしている。たった一人の愛する男のために。
「ちょっと座らない?」
そう言うとユージェニーはリリアーヌの手を取って寝椅子に並んで座らせた。
「でも、国王陛下は……」
「叙爵の儀の打ち合わせをしているから大丈夫よ。……ねえリリアーヌ、わたくしもレオも、貴女に本当に感謝しているの」
「わたくしに、でございますか?」
「そうよ」
ユージェニーは大きく頷いた。
「実はね、レオは即位してすぐの頃からもうずっとローレンスを王族にしたがっていたの。でも言えなかったんですって。彼を平民に仕立て上げたのは他ならぬ自分の父なのに、って」
「まあ、なんと」
「でもローレンスは事実を淡々と受け入れて恨み言一つ言わず、養父の代からずっと王室と国家のために汚れ仕事も厭わず貢献してくれている。父王の過ちを謝罪して彼らの働きに報いたいが、果たしてそれをローレンス自身は望んでいるのだろうか、と」
「先王様と国王陛下への恨み言めいたことは、一度も聞いたことはございません。そこはローレンスの本心だと思いますわ」
それを聞いたユージェニーはふっと息を吐いた。
「レオはほら……ああいう人間でしょう? だから、お互いちゃんと真実を知ったその上でローレンスと本当の兄弟として付き合いたかったのね。でもローレンスは絶対に臣下としての自分の立ち位置を崩さない。いつも冷静で他人行儀で無表情で、二人きりでいる時でさえ兄上とも呼んでくれない、彼がそうやって
「畏れながら陛下、それは違います。ローレンスは自分の存在が世に知られることで国王陛下にご迷惑がかかることを何よりも恐れておりました……いつも自分で自分のことを悪徳高利貸し、と蔑んで」
リリアーヌの脳裏に
「そうなのよね。だからわたくしもレオも、もうほとんど諦めていたの。貴女とローレンスが出会うまでは」
「え?」
思いがけないユージェニーの言葉にリリアーヌは思案を巡らせたが、思い当たることが全くない。
「王后陛下、それはどういった……?」
「貴女があの屋敷に来てから、明らかにローレンスは変わったのよ」
「変わった……」
「ええ。いつも冷静沈着なのは変わらないけれど、それまでは冷静、というよりも冷酷、だったの。どこか攻撃的で、そのくせ全てにおいて無関心、とでも言えばいいかしら。でもある時から、雰囲気がとても柔らかくなった」
「……」
いまいちピンと来ていなさそうなリリアーヌの表情を見てユージェニーは笑った。
「貴女は毎日一緒に暮らしていたから、あまり実感がなかったかもしれないわね。以前はわたくしもレオも、ローレンスが笑うところなんて見たことなかったのよ。獲物を仕留める時に悪魔みたいな顔でニヤッと笑うのは見たことあるのだけれど、あれは笑うとは言えないし」
この部分に関しては、リリアーヌもぶんぶんと頷いた。
「その顔はわたくしも見たことがございますが……本当に悪魔だと思いました」
「でしょう? あれ、心臓に悪いから止めて欲しいわよね。でもいつからかしら……本当に時々だけど、あら? 今この人笑った? と思うような表情を見せるようになったの。レオやわたくしと話す時に。それはね、貴女の話題になった時だけなのよ」
「わたくしのことが話題になったことがあるのですか? 思ってもおりませんでした。ローレンスが王宮で何をしているのか、全く知る機会がございませんでしたので」
それを聞いたユージェニーは少し申し訳なさそうな顔をして続けた。
「ごめんなさいね。実はわたくし達、コンスタンティン経由で貴女がローレンスの屋敷にいること、ずっと前から把握していたの。……コンスタンティンを責めないでやって? それほどわたくし達と王室にとってはローレンスは重要人物なのよ。だから彼の交友関係は押さえておく必要があったの」
コンスタンティンが何をどう国王夫妻に報告していたのかは知る由もないが、やはりあまり良い気分のするものではない。だがリリアーヌは冷静になろうと努めた。
「コンスタンティン先生は、とても良くして下さいました。わたくしの事情を全部ご承知の上で見守って下さっていたと思います。……ですから先生を責めようとは思いませんわ。それが先生のお仕事なのですもの」
これは紛れもない本心だった。あの日、意識を取り戻した自分にどこまでも優しく冷静に話しかけて落ち着かせてくれたコンスタンティンには感謝しかない。リリアーヌが静かに、しかしはっきりと言うと、ユージェニーはほっとした顔になった。
「良かった……それで、ある時レオがローレンスと会話している時にふと貴女の話題を出したの。屋敷に大層な美人がいるそうじゃないか、って。そしたらローレンスが
「そんなやり取りがあったのですか……」
その時のローレンスの様子はリリアーヌにも容易に想像できた。たぶん、あのいつもの笑ったのかそうでないのか分からないほどの微かな微笑みを浮かべて、いつもの静かで落ち着いた声で、さらりと言ってのけたのだろう。
「そうよ。それで、レオはもしかしたらと期待を抱いたのね。リリアーヌという令嬢がローレンスと、ひいては自分とローレンスの関係を変えてくれるかもしれないと。その時が来るまで待とう、とね」
レオの予感は当たった。リリアーヌと婚約してからのローレンスは確実に人間らしい感情を取り戻し、レオとの関係についても今までとは違う視点で捉えるようになったように見えた。ようやくローレンスの本心が見えた。今ならきっと。もし彼が渋ったとしても、婚約者が背中を押してくれるだろう、リリアーヌという令嬢は、そういう女性に違いない……。
「
そう尋ねるリリアーヌの声は少しだけ震えていた。
「そう思われても仕方ないのだけれど……でも信じて? レオは決して自分の罪滅ぼしや自己満足のためだけにローレンスを王族に加えたいのではないのよ。わたくし達はもうこれ以上、彼が
「ローレンスは、そこまで憎まれているのですか?」
ユージェニーは憤懣やるかたない声で答えた。
「憎まれているというか……蔑まれていると言ったほうが近いわね。貴族にも色々な人間がいるわ。何ら手を動かさずお金も出さず、口だけ出して、自分の欲望のために贅沢をすることしか考えない。そのお金がどうやって生み出されたのかなんて考えたこともない。……一部のそういう貴族にとっては、ローレンスのような人間は恥ずべき存在でしかないのでしょう。彼に助けてもらったことのない貴族などいないというのに」
貴族でなくてもそういう人間はいる。リリアーヌの脳裏にマテオの姿が蘇った。
「そういう人間は、確かにおります。わたくしの前夫もそうでした」
「彼らがローレンスを蔑むのは、彼が平民だからというのもあるの。でも本来なら彼は王位継承権を持っているのよ? レオもわたくしも、許せなかったわ、ずっと。だって、ローレンスが傷ついてないはずなんてないもの。そう思わない、リリアーヌ?」
リリアーヌは核心を突かれた気がした。国王陛下はもうずっと前から気づいておられたのだ。弟が悪魔などではないことを、彼もずっと血を流していたことを。陛下は、弟を守ってやりたかったのだと。
「……ローレンスは、ずっと自分を恥じていたそうです。罪を背負って産まれてきた子だと……ですから、陛下がローレンスが傷ついてないはずなどないと思われたのは、正しいと思います」
「そんなふうに思う必要などないのに……わたくし達がどれほどローレンスに感謝しているか、レオがどれほど弟を愛しているか、どうしたらローレンスに分かってもらえるのかしら」
「王后陛下」
リリアーヌは思わずユージェニーの手を取った。
「ご心配なさらないで下さいませ。ローレンスは分かっております。彼も国王陛下を兄として慕っております。ですから今回のお話を有難く頂戴したのだと思いますわ。……わたくしの存在がそこに少しでも良い影響を与えられていたとしたら、それは大層嬉しゅうございますけれど、最終的にはローレンスは自らの意思で選んだのです」
ユージェニーの目が潤んだ。彼女はリリアーヌの手を強く握り返すと微笑んだ。
「ありがとう、リリアーヌ……それを聞いて、わたくし本当に嬉しいわ。やっぱり貴女はわたくしが思った通りの方よ……わたくしもレオも、貴女を全力で守りますからね」