慌ただしく日々は過ぎ、いよいよローレンスとリリアーヌは明日、結婚式を迎える。
式はフィッツジェラルド邸の裏庭の
「それは構わないが、あんな古びた東屋で良いのか? 兄上から王宮の聖堂でやったらどうかと言われているが」
そう怪訝な顔をするローレンスにリリアーヌは笑って答えた。
「貴方のお母様が喜んで下さるような気がするのです」
それを聞いたローレンスは、何も言わずただ少し笑ってリリアーヌの頬を撫でると司教のところへ赴き、屋敷に出向いて結婚式を執り行ってくれるよう頼んでくれた。
その東屋は今、明日の佳き日のためにすっかり準備され、その時を待っている。小道には赤い絨毯が敷かれ、普段ガーデンテーブルが置かれている場所には即席の祭壇が設えられた。
明日の朝になったら絨毯の脇に溢れんばかりの花が飾られ、花嫁を迎えることになるだろう。
既に日は暮れ、夕食を済ませたローレンスとリリアーヌはいつものように執務室で茶を飲みながら語り合っていた。
「明日か。長いようであっという間だったな」
「ええ、そうですね」
「晴れると良いが」
「こればっかりは何とも。祈るしかございませんわ」
そんな取り留めのない言葉を交わしながら静かに時が過ぎて行くことに、二人は幸せを感じていた。
「式が終わって二か月後には、いよいよ叙爵か……無事にやり遂げられるだろうか」
ローレンスが柄にもなく弱音を漏らす。リリアーヌがぷっと吹き出した。
「何がおかしい」
「ごめんなさい……だって、ローレンス様にも苦手なことがあるなんて、わたくし思っていなくて……」
「ダンスのことか? あれはもう諦めてくれ」
コンスタンティンのダンスの特訓は続いていたが、リリアーヌがめきめきと腕を上げたのと対照的に、ローレンスはからきしだった。リリアーヌにとっては意外や意外であった。だがローレンスは諦めなかった。コンスタンティンに笑われたり呆れられたりしながらも必死に食らいつき、何とかワルツを三曲踊れるようになったのだ。最もこれはコンスタンティンによるとワルツが一番簡単でごまかしがきくから、という苦肉の策だったのだが。
リリアーヌが堪え切れず声を上げて笑う。それを見ているローレンスも困ったなという顔をしながら、満更でもなさそうだ。
「あんまり笑わないでくれよ。これでも結構落ち込んでいるのだから」
「そうですわね、わたくしのために頑張って下さったことは事実なのですから。三曲踊れれば十分ですわ。王后陛下もお許し下さるでしょう」
不意にローレンスが真顔になった。
「しかし、貴女が他の男と踊るのは許し難いな。たぶん引っ張りだこになるだろうが、その時俺はどうしたものか」
「まさか。美しい貴婦人が山ほどいらっしゃるのですから、そんなことにはなりませんでしょう」
「いや、皆貴女に目を奪われるはずだ。……本当に貴女は美しくなった。元々美しかったが、今はどこから見ても非の打ちどころのない貴婦人だ」
ローレンスの心からの賛辞にリリアーヌは思わず頬を染めた。
「ローレンス様ったら……だとしたら、それはひとえに王后陛下の指導の賜物です」
「それは確かにそうだが、何よりも貴女の努力がなければ成しえなかったことだ。本当に良く頑張ったと思う」
そう言うとローレンスはリリアーヌのほうに向き直り、膝の上で重ねていた手を両手で包み込んだ。
「リリアーヌ、ありがとう。こんな俺を愛してくれて、俺と共に生きていくことを選んでくれて。心から、感謝している」
「ローレンス様……お礼を申し上げなければいけないのはわたくしですわ。貴方はわたくしをあの地獄のような日々から救い出して、新しい人生を下さいました。全てを諦めていたわたくしに生きる意味を与えて、そしてわたくしを愛して、妻にすると仰いました。ありがとうございます。わたくし、幸せです」
二人は指を絡ませ、互いの額をコツンとぶつけ合って笑った。
「俺も幸せだ。明日からはもっと幸せになろう」
「ええ、ローレンス様」
「さあそろそろ寝ようか、明日は早いから。貴女の花嫁姿が楽しみだ。俺は一目見た瞬間に心を撃ち抜かれてぶっ倒れるかもしれん」
「まあ。嫌ですわそんなの。わたくしまだ未亡人にはなりたくありません」
そんな冗談を交わしながら、二人はそれぞれの部屋へ引き取った。
翌日、よく晴れた朝。
ローレンスは身支度を済ませてリリアーヌの私室の前で今か今かとその時を待っていた。落ち着きなく廊下を歩いてみたり、椅子に掛けたかと思うとまた立ち上がってみたり。
慣例に従って、式の直前まで花婿は花嫁の姿は見られないのだ。
「おいローレンス、いい加減少し落ち着いたらどうだ。大男がウロウロウロウロ鬱陶しい」
コンスタンティンは完全にあきれ返ってその姿を眺めた。
(全く、この男をここまで骨抜きにするとはな)
「お、俺は落ち着いているが」
「それのどこが落ち着いているのか教えてもらいたいもんだよ」
そんな問答を何度か繰り返したころ、ようやくドアが開いて、ローレンスは部屋の中へ足を踏み入れることができた。
純白のドレスに身を包み、長いヴェールを被ったリリアーヌがゆっくりと振り返る。
「リリアーヌ……!」
ローレンスは我が目を疑った。
「なんと美しい花嫁だ……まるで夢を見ているようだ」
リリアーヌの結婚衣装はローレンスが商会のあらゆる
上身頃はレース仕立てで、最近流行のデコルテを大きく開けたデザインではなく首の詰まったハイネック、袖もフルレングスの露出を最小限に控えたものだが、それがまたリリアーヌの慎ましさを強調していた。
髪が以前のように腰の下まで豊かに長くないのだけが唯一残念だったが、それでも後ろにゆったりと編み下ろし、オレンジの花で作った髪飾りをつけた黒髪は白いドレスに良く映えている。
そしてヴェールは柔らかく透けるチュールにリリアーヌ自身が草花の刺繡を施した、床まで届きそうなたっぷりと長いものだった。
「リリアーヌ、もっと良く見せてくれ」
まじまじと見つめられてリリアーヌは恥ずかしそうに微笑んだ。
「似合っておりますか?ローレンス様」
「ああ。女神が舞い降りたのかと思った」
そう力強く頷くとローレンスはリリアーヌの腰をぐっと抱き寄せた。この日のために王后陛下が寄越して下さった着付け係が声を荒げる。
「お止め下さいまし! お衣装が皺になります!」
「少しぐらいいいだろう」
ローレンスはリリアーヌの耳に顔を寄せ、熱のこもった声で囁いた。それを聞いた瞬間、リリアーヌが耳まで真っ赤になった。
「脱がすのが楽しみだ」
裏庭に並べられた椅子には参列者が腰掛け、式の開始を今か今かと待っている。
参列者といってもコンスタンティン、アビゲイルとジャンニ、弁護士のリチャードと助手のシルヴィア、コックのフランシス、エルヴィンとその他ローレンスの部下数人という、ささやかな人数だった。
商会の従業員は全員参列を希望していたのだが、俺の私的な予定のために業務を止めることなど断じて許さんというローレンスのお達しに従って、今頃は普段通りに皆忙しく働いていることだろう。
国王ご夫妻も式への参列を熱望されていたのだが、ローレンスとリリアーヌは話し合って、ひっそりと式を挙げることを望んだ。
夫婦になる時は慣れ親しんだ市井の一員として迎えたい。そこから先は公人となるのだから、と。お二人は納得して下さった。
それから、リリアーヌは花嫁の付き添いをアランに頼んだ。当然アランは固辞したが、ローレンスの後押しもあり、その大役を引き受けることになった。
いよいよ式の開始が迫り、司教が祭壇の前に立った頃、小道の脇で入場を待っているリリアーヌにアランが声をかけた。
「奥様」
リリアーヌがはっとした顔をする。アランは瞳の奥に深い喜びをたたえながら続けた。
「ようやく奥様とお呼びできますね。ずいぶん待たされましたが、私には分かっておりましたよ。旦那様の花嫁になられる方は貴女しかいない、と」
「アランさん……今まで本当にありがとうございました。初めてこのお屋敷に足を踏み入れた時からずっと優しくして下さいましたね」
「お礼を言って頂くほどのことはしておりません」
アランはいつも通りの柔らかい物腰を崩さなかったが、ほんの一瞬だけ表情が悲しそうになった。
「……私のことは旦那様からお聞きになりましたでしょう」
「ええ、伺いました。アランさんもお辛かったのではありませんか」
「……正直申し上げますと、先王様から何度か、旦那様を始末するよう命じられたことがございました」
「まあ……でも」
リリアーヌの"でも"にアランは頷く。
「深夜、寝室に忍び込んで、眠っている旦那様の首に手をかけたこともございます……でも私にはできませんでした。幼い旦那様はたった一人でこの世の不条理を背負わされ、それでも気丈に孤独に耐えておられた。それを見ておりましたから」
「アランさんがいて下さって、ローレンス様は嬉しかったと思いますわ。そんなふうに思ってくれる方は誰一人いらっしゃらなかったでしょうから……貴方が刺客であっても」
それを聞いたアランが上を向いて目をしばたたかせた。涙を見せまいと努めているのだろう。
「泣かないで、アランさん」
「奥様もですよ。折角のお化粧が崩れてしまいます……ああ、旦那様もどれほどお喜びでしょう。奥様、旦那様を、何卒」
「ええ、一生、心から愛すると誓いますわ。アランさん、これからもわたくしを支えて下さいませ。わたくし、アランさんのことをお父様のように思ってますのよ」
もうアランは涙を隠すことができなかった。ハンカチで目元を押さえながら、くしゃくしゃになった顔で微笑む。
「勿体ないお言葉です、奥様」
そして胸ポケットから懐中時計を取り出すと、明るい声で言った。
「さあ、お時間です。参りましょう。これ以上旦那様をお待たせするとカミナリが落ちる」
リリアーヌも差し出されたアランの手を取って前を向いた。
ゆっくりと歩き出し、植え込みの陰を曲がって赤い絨毯の敷かれた小道に出ると、不意に視界が明るくなった。
その場にいる全員の視線がリリアーヌに集中し、皆が息を呑んだのがわかる。
アビゲイルが感極まった様子で呟く声が耳に入った。
「リリアーヌさん、綺麗.....」
アランに導かれて小道を一歩づつ進んでゆく。東屋の前で一人の男がリリアーヌを待っている。
見上げるほど背が高く、眼光鋭く、左の頬に大きな赤黒い傷痕のある、残忍で悪名高い高利貸し。その名はローレンス・フィッツジェラルド。
違う、とリリアーヌは心の中で首を横に振った。
(わたくしもここにいる人達も、本当のローレンス様を知っています。わたくしは、不器用で高潔で優しいこの方と生きてゆくわ……この先に何が待ち構えていても)
東屋の前に到着し、アランがリリアーヌをローレンスの左手に委ねた。リリアーヌは白手袋を嵌めたその手に思いのほか強い力が込められているのに驚いた。
ヴェールの奥から見上げると、ローレンスのいつも通りの穏やかで優しい眼差しがリリアーヌを見つめていた。二人にしか聞こえない声でそっと囁く。
「大丈夫か?」
「はい」
リリアーヌも小声で答えると、ローレンスは小さくうん、と頷いた。
「では、参ろう」
そしてこの日、二人は神の前で正式な夫婦となった。