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第39話 少年時代*

  ローレンスには、母親の記憶はほとんどない。

 先王との間にローレンスを身ごもったクララは密かにフィッツジェラルドの妻として下げ渡されたが、早すぎた妊娠と出産は彼女に苦しみしかもたらさなかった。


「母は三日三晩も陣痛に苦しみぬいて、相当な難産の末に何とか俺を産み落としたが、もうその時には手ずから息子を育てるどころか、自分の精神さえ正常に保てない状態だったそうだ。俺はほぼ同時期に出産したコンスタンティンのお袋さんから乳を貰って、どうにかこうにか生き延びることができた」

 そんな状態の母親に、当然ローレンスは抱きしめてもらったことも、微笑みかけてもらった記憶もほとんどないという。


「母の記憶というと覚えているのは、いつもこの東屋あずまやに座っていた姿だ。何をするでもなく、一人、石のように押し黙って。それでもごくごく調子のいい時には俺を膝に乗せて、か細い声で名前を呼んでくれたのをおぼろげに覚えている」


 リリアーヌは胸が締め付けられた。なんという悲しい母と子の記憶だろう。わずか十五歳で地獄のような苦しみを味わい、そうして産まれた息子を、彼女は愛することができたのだろうか。

「お父様……フィッツジェラルド様はどうされていたのですか?」

 ローレンスは微かに眉を寄せた。

「親父か……親父は……母にどう接すればいいのか、わからなかったんじゃないかと思う。ある日突然、宮廷への出入りを引き換えにまだ十五にもならない娘を妻としてめとれと言われて、しかもその腹には王の子供を宿している。親父も困っただろう。……親父が見つけた答えは、良くも悪くも、だった」


 そんな生活は二年後、不意に終わりを告げた。


「ある日、母はこの東屋で死んでいたそうだ。ジキタリスの花を噛んで……死に顔が安らかだったのが、せめてもの救いだ」

 リリアーヌは思わず、ローレンスの手に自分の手を重ねた。

 ローレンスはその時まだ二歳だったから、当然母の死など理解できなかった。クララの葬式の参列者は、フィッツジェラルドとローレンス、先代のモルダー医師、その三人だけだった。

「暗い教会に棺が置かれていて、確か親父がお母様にお別れをしなさいと言った。それで俺は親父に抱かれたまま棺を覗き込んで母の手に触れた。そしたらその手があんまり冷たくて硬かったから、びっくりして泣き出した。母の記憶はそれが最後だ」


 その後フィッツジェラルドは後妻を娶ることもなく、ただただ仕事に邁進した。彼の仕事が軌道に乗り、莫大な財を成しても、広大な屋敷でローレンスはいつも一人ぼっちだった。

 見かねたモルダー医師が国王に密かに注進して、フィッツジェラルドに息子を宮中に連れて来るよう命じさせた。


「その後は、陛下がこの前話されたとおりだよ。親父は俺を宮中に連れて行くのを渋ったらしい。王子と俺が瓜二つだったら、とね。でも幸い子供の頃はあまり似てなかったから、誰も不信感を抱かなかった」

 宮中で王子や他の子供たちと過ごす時間は、幼いローレンスにとって孤独を忘れられる貴重なものだった。特に一つ年上の王太子は溺愛ともいえるほどローレンスを可愛がり、どこへ行くにも連れて回った。

「本当に『にいたま』と呼んでらしたの?」

 リリアーヌの問いかけにローレンスは苦笑した。

「どうも本当らしい。王子は皆には『王太子様』とか『殿下』とか呼ばせているのに、俺にだけ『にいさま』と呼べと言って聞かなかった。文字通り、そう呼ぶまで離してくれないんだよ。頭をこう抱え込んで、苦しいったらありゃしない」

 女官や廷臣たちの間には、平民の、それも金貸しの息子を王太子と遊ばせることに反対の声も多かった。だがたまに予定された日にローレンスが登城できないと王太子が大泣きして手がつけられなくなるので、そのうちにもう誰も何も言わなくなったらしい。


「お可愛らしいこと」

「子供の頃から優しい方だった。今も変わってない」


 無邪気な子供時代はあっという間に過ぎる。


 成長するにつれ、ローレンスは自分の家がどこか異質であることに気づき始めた。

 父親のフィッツジェラルドはほとんど家におらず、どう贔屓目に見ても息子に関心があるようには思えない。

「辛い思いをしたことはないが、愛されていると思ったこともない、というのが一番近いな。それで俺は、自分と親父は血が繋がっていないのではないかと思い始めた」

「何かそう思われるきっかけはあったのですか?」

 ローレンスは首を横に振ると続けた。

「いや、特には。……ただ」

「ただ?」


「似てないんだよ、俺と親父は。全然」


 まずローレンスがおかしいと思ったのは背格好だった。

「親父は成人男性の中でもどちらかというと痩せて小柄なほうなのに、俺はこの通りの大男で、十になる頃にはほとんど親父と同じか、追い越すぐらいまで背が伸びてた」

 次に気がついたのは風貌だった。

 街を歩いていても、宮中でも、すれ違う父と息子らしい人たちは皆どこか似通っている。時には全く同じ顔をしている親子もいるのに、ローレンスはフィッツジェラルドと全く似ていない。

「髪の色も目の色も、顔立ちも全然似ていない。手の形すら違っていて、共通点が一つもない」


 何かが、おかしい。


 多感な年頃を迎えていたローレンスを疑惑がじわじわと襲い、寝ても覚めても彼を悩ませた。

 それでもローレンスは父の仕事を継ぎ、商人になることで親子の絆を確かめようと思っていた。

 当時既にフィッツジェラルドは重要な会議や商談に時折息子を同席させており、事業のことに限ってだが親子の会話も増えてきていて、ローレンスは父に喜んでもらいたいと必死だったという。


「親父が俺を信用して、商会を継がせようとしてくれていると思っていた。だから十三歳になったら商業学校へ行って商売のイロハを学ぶんだと、親父もそれを望んでいると思っていた。それなのに十二の夏に突然、来年から士官学校に通うようにと言われた」


 フィッツジェラルドの言うことが俄かには信じられなかったローレンスは食い下がった。なぜ商業学校ではなくよりにもよって士官学校なのか。軍隊なんて大嫌いだ。軍人になりたいなどと一度も言ったことはないではないか。それなのに、なぜ、と。

 だが父はローレンスの質問に一切答えようとせず、もう決まったことだと繰り返すだけだった。業を煮やしたローレンスは、遂にずっと心に溜めていた疑問をぶつけてしまった。


 僕が父さんの本当の子供じゃないから、父さんは僕のことがどうでもいいんだろ!? それぐらい分かってるよ!!

 教えてよ、僕は誰の子なの!? 答えてよ父さん!!


「次の瞬間、親父に思いっきり張り倒された」

「まあ」

「あの小柄な親父のどこにそんな力があったのかと思うほど、強烈な一発だった。痛かったな……目から火花が飛ぶというのを身をもって体験したのは、後にも先にもあの時だけだ」

 床にうずくまって泣きじゃくるローレンスを助け起こした父は、もう隠し通せないことを悟ったのか、真実を告げたのだった。


 お前は国王陛下の子だ。母さんが身ごもっている時に、訳あって俺が妻にして、お前を実子として育てた。このことを知っているのは、国王陛下と俺とモルダー先生とアランだけだ。

 絶対に墓場まで持って行かなければならない秘密だが、お前ならと思って打ち明けた。頼む、ローレンス、何も言わず、士官学校へ行ってくれ……


 リリアーヌはそっとローレンスを見上げた。横顔の唇が微かに震えている。

「お父様もお辛かったのではありませんか」

「今ならそうかもしれないと思えるが……十二歳の子供には残酷すぎる内容だったな」


 結局ローレンスは何一つ納得できないまま、仕方なく士官学校に入学した。レオ王太子が喜んでいると聞かされたが、自分の出生の秘密を知ってしまった以上、もう幼い頃のように言葉を交わすことはできないと記憶に蓋をした。

 王太子が一学年年上であることを幸いにローレンスは人目を避け、目立たず静かに学校生活を送った。とにかく卒業までその日その日をやり過ごそう、それしか考えていなかった。

 だが、あの事件が起こってしまった。

「あの日俺はくじで負けて、開校記念日の式典の実行委員になっていた。王太子殿下のスピーチの時間になってぼんやり袖から舞台を見ていると、殿下が護衛を一人もつけず壇上に上がられた。俺は、珍しいこともあるものだと思った」


 開校記念日は雲一つない晴天で、太陽の陽射しが眩しかった。レオ王太子がスピーチの原稿を取り出した時、ローレンスの目に一瞬、何かがキラッと反射した。

 直感で身体が反応した。咄嗟に走り出し、力の限り王太子を突き飛ばして立ちふさがった。

 その時、左の頬に強い衝撃を感じた。次の瞬間、視界が暗くなりローレンスは舞台に転がった。

「自分の身に何が起きているのか分からなかったが、護衛が一斉に王太子殿下の周りを固めたのを見て、ああ、助かったと思った。気が付くと、頬を押さえていた左手がべっとり濡れている。血が伝って、床にまで落ちていた。そこで初めて俺は顔を切られたと理解した。そしたら急に意識が遠のいた」


 白い柔らかい手が下から伸びてきて、ローレンスの傷痕をゆっくりと撫でた。リリアーヌがローレンスの傷に触れたのは初めてだった。

「……痛かったでしょう?」

 涙声で問いかける。ローレンスは傷に触れるリリアーヌの手をその上からそっと握りしめると続けた。

「それが……その時はそうでもなかった。頭のどこかが妙に冷めてて、平民の俺が王太子を突き飛ばすのは大変な不敬行為だなとか、そういうことを考えていた。だから王太子殿下にまず詫びた」

「貴方のお陰で助かったのに?」

「よくよく考えるとおかしな話だが。でもあの時はそう言うしかないと思ったんだ。……本当は、『無事でよかった、兄上』と言いたかったんだが」

 リリアーヌの目から涙が一粒落ちた。


 その直後ローレンスは完全に意識を失い、病院に運び込まれた。左頬の傷は思ったよりずっと重症で、十針近く縫わなければならなかった。

 気温が高い季節だったこともあり、傷は治りが遅かった。何度も高熱を出し、激しい痛みにさいなまれながら、彼はその夏を病院で過ごした。

 ようやく傷が癒えて、顔の左半分を分厚く覆っていた包帯が解かれた時、ローレンスの頬には見るもおぞましい赤黒い傷痕がくっきりと刻まれていた。

 その場にいた若い看護婦が思わず顔を背けてしまったほど酷い有様だったが、ローレンスは一言も口をきかず、無表情で医師にお辞儀をして一人で屋敷に戻った。

 帰り道、すれ違う人々に気まずそうに眼を逸らされたり、あからさまにぎょっとした顔で道を除けたりされても、全く気にも留めない様子を装いながら。


 そしてその夜、ローレンスはフィッツジェラルドの前に立ってはっきりと言ったのだった。


「士官学校には戻りません。商業学校にも行きません。あなたの下で商売を学んで、後を継ぎます」


 フィッツジェラルドは顔を上げると、ローレンスに問いかけた。

「俺がお前の本当の父親でなくてもか」

 ローレンスは頷いた。

「僕は父さんの子です。高利貸しフィッツジェラルドの息子として生きるのが僕の望みです」


「親父は一言、手加減せんぞ、とだけ言って、黙って士官学校の退学手続きをしてくれた。ああ、その時……」

 ローレンスは何かを思い出したようにくっくっと笑った。

「その時?」

「……退学を認めないと言う王宮の役人を怒鳴りつけて震え上がらせたんだとさ」

 どうやら、王太子殿下が楽しみにされているから、とか王もそれを望まれているから、と理屈を並べて退学を認めようとしない事務官に切れたフィッツジェラルドは、その胸倉を掴んでこう啖呵を切ったのだそうだ。


「王も王太子も見舞いの花一つ寄越さなかったのに、どの口が言われますか! ならば俺の屋敷に来て息子の顔を見て、それでも同じことが言えるのなら言ってみれば良かろう! 」


 あまりの剣幕に事務官は震え上がり、即座に退学を認めたのだそうだ。

「お父様、あっぱれですわ」

 リリアーヌが胸の前で小さく拍手したのを見てローレンスも笑った。

「いや本当に怖いんだ、親父は。弟子になってつくづく痛感した。この人は怒らせてはいかんとね」


 息子の決意を受け入れて、それ以降フィッツジェラルドは常にローレンスを連れて歩き、本格的に事業を学ばせるようになった。

「修行を始めてすぐの頃は、あのまま士官学校にいたほうが良かったんじゃないかと思うぐらいきつかった。覚えることは山のようにあったし、少しでも判断を誤ると徹底的に叱責された。あの時の手加減せんぞという言葉の意味がよくよく分かったよ」


 事業を学ばせるというのは、表に出せないもの、すなわち裏稼業の高利貸しも含めてだった。苛烈な取り立てや時には荒事あらごとに発展する時でも、フィッツジェラルドは一切妥協せず全てに息子を同席させ、現実を突きつけた。

 相変わらず父と息子はほとんど言葉を交わすことはなかったが、二人の絆は確実に強まっていた。

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