現国王レオ三世の父、先王マキシム五世は若い頃、好色王として名を馳せていた。
王太子時代から様々な女性と浮名を流し、危うく決闘沙汰になりかけたことも少なくなかったと言う。
王として即位し、隣国の王女を王妃に迎えて多少は落ち着いたと思われていたのだが、ある時、王宮で働く一人の小間使いの少女が王の目に留まった。
小間使いと言っても彼女は貴族ではなく、ほとんど下働きに近いものであったので、いつどこで王が彼女と出会ったのかは今となっては知る由もない。
「それがローレンスの母親だ。名は……何と言ったかな」
「……クララでございます」
「そう、クララだ」
国王はローレンスに頷くと話を続けた。
「当時、既に正式な後宮制度は廃止されていたが、王の寵愛を受けた女性は愛妾として堂々と宮廷に留まっていたし、非嫡出子が生まれることも珍しくはなかった。貴族の親達には自分の出世の道具に娘を進んで差し出す人間も少なくなかったしね。ただ残念なことに、クララは身分が低すぎたのと、時期が悪かった」
どれほど没落した家であっても、貴族の生まれであれば王ももう少し大っぴらにクララを王宮に置くこともできただろうが、流石に身寄りのない平民の下働きが相手では分が悪かった。
それに王自身、そこまでクララをどうこうするつもりはなく、一時の手慰み程度にしか思っていなかったのだろう。
そして遂に悲劇が起こった。ある時、クララが王宮の一室で片づけものをしていると、突然マキシムが部屋に入って来て、クララに襲い掛かったのだ。
「!!」
両手で口を覆って息を呑み込むリリアーヌに、レオは申し訳なさそうに言った。
「我が父ながら、本当に恥ずかしいよ。だがもう少し我慢して聞いてくれるかい?」
リリアーヌが頷くと、レオが話を続けた。
マキシムはクララを突然羽交い絞めにすると壁に押し付け、何が起こっているのか分からず涙を流して怯えているクララにこう囁いたという。
……私は王だ。王に逆らえばどうなるかわかっているな?
そして慌ただしく自分の欲望を満たすと、そのまま部屋を出て行った。
「そんな……」
リリアーヌは王の御前であることも一瞬忘れて涙ぐんだ。
「酷い話だよ。その時の父は自分がどれだけ罪深いことをしているのかなんて、考えることさえしなかったんだろう。王は一時の欲望をそうやって満足させると、その日以来クララのことなどすっかり忘れてしまった。だが、それでは終わらなかった」
ここでレオは一旦リリアーヌのほうへ向き直ると、またしても衝撃的な質問をリリアーヌに投げた。
「少し話が逸れるが、リリアーヌ嬢、宮中には表向きの御典医とは別に裏医者、と呼ばれる人間がいるのを知っているかい?」
「えっ?」
リリアーヌは再び絶句した。全く、今日はどうしてこんなことばかり聞かされるのだろう。
「まあ、知っている訳がないよね。リリアーヌ嬢、宮中というのはそういう所なんだ。
宮中に出入りする貴族の目的は、ほぼ同じ。男であれば出世、女であれば王あるいは高位貴族を仕留めることだ。それゆえ常に陰謀と嫉妬と足の引っ張り合いが渦巻き、時には悲劇が起こる。
「男同士の争いはまだ救いがある。肉体的に傷ついてそれで終わることがほとんどだからね。決闘だとか、狩りの場に紛れてとか……でもご婦人同士の
貴族の、とりわけ若い未婚の令嬢の評判を落とす一番手っ取り早い方法は、
下手人は誰でも良い。三角関係に狂った伯爵夫人がその令嬢に横恋慕している男をけしかけたり、あるいはごろつきに金を握らせて暴漢に襲われた体を装ったり、方法は様々だ。
その結果、何が起きるか。
まず、嫁入り前に身体を
だがそうではない最悪の場合は……身体を
「もっともこれは若い令嬢に限った話ではなく、既婚の貴婦人でも日常茶飯事だ。火遊びの結果とか、夫の出世を盾に脅されてやむを得ず、とかね。そういった表に出せない諸々を処理するために秘密裏に宮中に出入りしている町医者がいる」
そこまで聞いていたリリアーヌは、ふとローレンスの方を向いた。誰か心当たりがあるのだろう。
「そう、コンスタンティンだ。モルダー家は代々、宮廷の裏医者を拝命している」
ローレンスは相変わらずリリアーヌを見ようとせず、前を向いたまま答えた。
当時はコンスタンティンの父、先代のモルダーが裏医者を務めていた。
王がクララを手籠めにしてから数か月が過ぎ、そのことを王自身がすっかり忘れてしまった頃、モルダー医師のところにある女官が一人の少女をこっそり連れて来た。
この子は王宮で下働きをしているのだが、最近、人目を避けて吐いているところを見かけた。まさかとは思うが、身ごもっているのではないだろうか、と。
診察の結果、確かにクララは妊娠していた。相手が誰なのか、クララは決して口を割らなかった。だがクララを連れて来た女官がモルダー医師に囁いた名を聞いて、彼は真っ青になった。
実はその女官は、
彼女はこう言った。王は悲鳴を上げることも忘れているクララのスカートを後ろから
クララが襲われた日と胎児の月齢から計算すると、ぴたりと合う。モルダーは確信した。
この少女は、生まれて初めての、意に染まぬたった一度の行為で身ごもってしまったのだ。しかも、一国の王の子を。
「ローレンス、聞きたくなければ部屋の外に出ていても……」
「いえ、お続け下さい」
レオの言葉をローレンスは短く遮った。
モルダー医師は、急ぎこのことを王に告げた。
当初、王はクララのことを覚えてすらいなかったが、女官の証言を聞くと顔色が変わり、事実を認めた。
これは大変なことになってしまった……とモルダー医師は頭を抱えた。
「ちょうどその時王妃の懐妊が発表されたばかりで、出産を半年後に控えていた。それはつまり僕のことなのだけど」
レオの一人称がいつの間にか
というのも、先王夫妻にはなかなか子が授からず、王妃の懐妊の報せは国中が一日千秋の思いで待ちわびていたまたとない慶事だったからだった。
ようやく安定期を迎えた王妃の喜びと重圧は常人には想像しがたいものだっただろう。そんな時にあろうことか国王が平民の下働きの少女に手を出して孕ませるなど、到底まかり通ることではなかった。
このままだと王妃の出産からあまり時を置かずして、クララも出産を迎えてしまう。もしこのことが王妃や世間に知られたら、一大事だ……
「さっき僕が言った時期が悪かったというのは、こういう訳だ。当然、父は大いに困って色々考えた。モルダー医師に命じてお腹の子ともどもクララを始末してしまうこともできたのだが、父はそうしなかった。父の頭にある考えが浮かんだんだ」
王はこう考えた。王妃はなかなか懐妊しなかった。ということはこの先、次の子供は期待できないかもしれない。それに生まれて来る子供が無事に成人まで育つとは限らない。
王家の正統な跡継ぎには何かあった時の
そして王はモルダー医師にこう持ち掛けた。
真実を全て知った上で、その下働きと腹の子を自分の妻と実子として引き受けられる男はいないか。
口が固く、忠義に厚く、そして己の野望のために宮中に出入りするきっかけを欲しがっている、そんな平民の男がいい、心当たりはないか、と。
モルダー医師はしばらく考えて答えた。
「一人だけ、陛下のお望みに叶いそうな者がおります」
「それが」
「俺の親父、フィッツジェラルドだ」
レオの言葉を受け取り、その部屋に入って初めて、ローレンスがリリアーヌに視線を向けて言った。
当時フィッツジェラルドは王都で
彼はいわゆる一匹狼で、人付き合いも仕事に必要なこと以外ほとんどせず、当時すでに四十を迎えようとしていたが、女っ気は全くない。まさにうってつけの男だった。
モルダー医師はフィッツジェラルドを伴って王宮に赴き、秘密裏に国王と面会させた。一部始終を聞き終えて、彼は一言だけ言った。
「承知いたしました」
そしてその翌日にはクララは密かに王宮を出て、フィッツジェラルドの妻になっていた。