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第30話 蜜月

 その冬はローレンスとリリアーヌにとって、それまでと全く違う冬になった。


 まずローレンスはリリアーヌに正式な婚約の証として婚約指輪を贈った。

 それは金の細い輪の真ん中に小ぶりのエメラルドがダイヤモンドに縁どられて収まっている華奢なもので、ローレンスは目もくらむような最高級の、しかも指からはみ出すほど大粒のダイヤモンドを贈りたがったのだが、リリアーヌがあまり華美なものは嫌だと言ったのでしぶしぶ従ったのだった。


 次にローレンスはリリアーヌのドレスを何着も仕立てさせた。あまりに金に糸目をつけず次から次へと注文するので、しまいには仕立屋から流行は毎年変わりますのでこんなに仕立ててもシーズン中に全部着られませんと止められてしまう勢いだった。

 またドレスだけでなく帽子に靴にハンドバッグに日傘にアクセサリー……あらゆる贈り物が連日届き、リリアーヌの部屋に積み上がっていった。

 遂にある日リリアーヌがもう何も要らないと言うと、ローレンスは子供のように拗ねてこう言ったのだ。


「貴女が美し過ぎるから悪いのだ……美しい人に美しく装って欲しいだけなのに……」


 初めて見る駄々っ子のようなローレンスの姿に思わずリリアーヌは微笑を禁じえなかったが、それでも食い下がった。

「でも流石に多すぎですわ。わたくしは一人しかおりませんのよ? 仕立て屋にも言われましたけど、これでは全部着る前に冬が終わってしまいます」

「朝昼晩で着替えればいいじゃないか」

「……ローレンス様、ご冗談もほどほどになさって?」

 それでも不服そうに口を尖らせるローレンスを見て、こんなにも表情豊かな人だったのかとリリアーヌは改めて驚いた。


 この一、二ヶ月の間に、二人の関係性はまるっきり逆転していた。


 もちろん一見するとローレンスは強面で不愛想な仕事一筋の男のままだし、リリアーヌもそんなローレンスを頼り、常に一歩下がって万事控え目で引っ込み思案な印象なので、傍目にはあくまで主導権を握るのは亭主関白のローレンスという姿に見えるだろう。

 だが二人きりになると完全に立場が逆転して、ローレンスはリリアーヌに甘え、一時も離したくないと常に傍について回り、隙あらば抱き締めて耳元で愛の言葉を囁く。

 ある時などその現場に偶然居合わせたコンスタンティンにお前気持ち悪いぞと引かれる始末。

 そしてリリアーヌもそんなローレンスを優しく受け入れ、髪を撫でたり額やこめかみに口づけを交わし合ったりして甘やかし、そうかと思うと時には諭したり叱ったりと、そこには以前の常に怯えておどおどしていた面影は全くなかった。


 要するに、二人はどこにでもいる愛し合っている男と女だったのだ。


 今日も夕食後いつものように執務室にリリアーヌが茶を持って来るや否や、ローレンスは書類を放り出して二人でソファに並んで座るようリリアーヌを誘った。

 以前なら一晩中でも書類の山に埋もれていた姿からは想像もできなかった。


「ローレンス様、お仕事はもうなさいませんの?」

 せがまれて膝枕をしてやっているリリアーヌは、満足そうに眼を閉じているローレンスを見下ろしながら話しかけた。

「もう疲れた。今日はしまいだ」

「でもまだあんなに書類が残ってますわよ?」

 ローレンスは片目を開けてリリアーヌが指差したデスクの方向を一瞥したが、すぐにリリアーヌの膝に頭を乗せ直して答えた。

「嫌だ。もう今日は仕事はしない。貴女とこうしているほうが良い」

 その子供のような言い方にリリアーヌはくすくすと笑った。

「このところ毎日そう仰って。このままだとわたくしが商会の皆様に恨まれてしまいそう」


 するとそれを聞いたローレンスが両目を開けてリリアーヌを下から見上げた。

「それなんだが、最近、仕事のやり方を見直そうと思うようになった」

「まあ、どんなふうに?」

「そうだな……今までは基本的に俺一人で全部やってたんだが、よくよく考えたらどうしても俺が決定しなければならない訳でもない案件もかなりあることに気づいた。そういったものは今後、誰かに渡していこうと思っている」

「それは良いことだと思いますわ」

 リリアーヌの同意を得て、ローレンスは満足そうに眼を細めた。

「俺の事業もかなり多岐に渡ってきたし、事務所の人間の数も増えた。もう俺一人では管理し切れん所に来ていたんだろうな。いいきっかけだ」

「きっかけ?」


 下からローレンスの腕が伸びて来て、リリアーヌの頬に触れた。


「貴女だよ、リリアーヌ」

「わたくし?」

「ああ、そうだ。俺が今一番やりたいことは、貴女と人生を楽しむことだ。仕事よりそのことに時間を使いたい。確かに仕事は面白い。成果が出ると達成感もあるし自信にもなる。だが人生、それだけでは知らず知らず心が渇いていくんだろうな」

「確かに以前の貴方は強面の仕事一辺倒でしたわね。わたくしも声を掛けるのが躊躇ためらわれる時が良くありました」

 ローレンスは朗らかにはははと笑って続けた。こんな笑い声も、リリアーヌ以外の人間はほとんど聞いたことがないのだろう。

「以前の俺にはこういう安らぎを感じられる瞬間は皆無だった。安らぎという感覚がどういうものかすら知らなかった、と言ったほうが近いかな。でも今は、貴女の存在自体が俺にとって安らぎになっている」


 そこまで言うとローレンスはゆっくりと起き上がり、ソファに座り直すと今度は逆にリリアーヌを抱き上げて横向きに膝に乗せた。


「正直、俺はちょっと困ってるんだよ」

「?」


 ローレンスの首に片手を回したリリアーヌが怪訝そうな表情になる。


「貴女が俺を骨抜きにしてしまうから」

「まあ、何てこと仰るの」

「いや、本当だ。最近、以前の俺と今の俺と、どちらが本当の自分なのかよく分からなくなってきてしまった。自分がこんなに笑う人間だとは思ってなかったし、女性に愛の言葉を囁くなんて一生縁がないと思っていた。それがどうだ。この頃は事務所でしかめっ面を保つのが本当に大変で」

「それはね、ローレンス様」

「ん?」

「お仕事中ももっとお笑いになればいいのよ」

「そ、そんなことできる訳ないだろう!」

「あら、どうして?」

「それはその……俺の仕事柄……舐められないように……」

 思いもよらない提案にしどろもどろになるローレンスの額にかかる前髪をかき上げながらリリアーヌは続けた。


「もちろん、四六時中笑っている必要はありませんわ。貴方のお仕事は敵も多いでしょうし、貴方ご自身も倒すべき相手に対してはとことん冷酷になれる方ですから。でも身近な……例えば事務所の人たちは皆社長にもっと笑ってほしいと思っているのよ」


 そうなのか? と半信半疑のローレンスにリリアーヌは頷いてみせた。


「ローレンス様は気づいてらっしゃらないかも知れないけど、皆、貴方のことが大好きで力になりたいと思って下さっているのよ。以前、こう話しているのを聞いたことがあるのです。……社長は時々とても寂しそうな顔をしておられることがあって心配だと。それと、お一人で全てを抱え込んでおられるだろうから手伝って差し上げたいけれど、お顔が怖いので滅多なことが言えない、とも」

「顔が怖いのは自覚してたが」

「貴方も密かにお気になさっていたのでしょう? だから、もっとお笑いになって? そして、貴方を慕ってついてきてくれる方達をもっと信頼して、頼って、育てて差し上げて? だからわたくし、貴方の仕事を減らすというお気持ちには、大いに賛成ですわ」

「本当に、そう思ってくれるか?」

「ええ、勿論」

 それを聞いたローレンスは何か吹っ切れたような顔でリリアーヌを見つめた。

「そうか。では決めた。社員には心おきなくもっと働いてもらおう。……さあ、口づけしておくれ。一日中婚約者のことばかり考えている情けない男に」


 リリアーヌの顔がゆっくりと近づいて、そっと唇が触れた。ローレンスは辛抱堪らんといった様子で呟いた。

「結婚式まであと三ヶ月か……待ち遠しいな」

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