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第29話 理由などいらない

 執務室に残されたローレンスとリリアーヌは、この膠着状態をどう脱しようか、お互いにとても困っていた。

 リリアーヌがそっと上目遣いに様子を窺うと、ローレンスは片手を額に当てて扉にもたれたまま微動だにしない。

 どうにも沈黙に耐えられなくなったリリアーヌがおずおずと声をかけた。


「あの……ローレンス様……お座りになりませんか? その……立ち話も何ですから……」

「あ、そ、そうだな……」

 ローレンスがごそごそと大きな身体を動かし、元の肘掛け椅子に座り込むと、またリリアーヌが声を掛けた。

「お茶を淹れ直しましょうか?」

「……いや、茶はいい……それよりそこのキャビネットにあるブランデーを頼む……」


 頷いたリリアーヌがキャビネットからデキャンタを取り出し、グラスにブランデーを注いで渡すとローレンスは一気にあおる。それで正気に戻ったのか、ふうっと溜息をついた。


「貴女も飲むか?」

「……いただきます」


 ローレンスから受け取ったグラスに少し残っていたブランデーを喉に流し込むと全身がかあっと熱くなったが、それは初めて口にするアルコールのせいなのか、ローレンスと同じグラスで同じものを呑んだせいなのか、自分でも良く分からなかった。

「ブランデーなんて初めてです」

「強いから、一口だけにしておきなさい。調子に乗ると後から来る」

 さっきグラスを受け取る時にローレンスの指が触れたことにふと気づいて、リリアーヌは動悸が激しくなった。


 グラスをテーブルに置くとローレンスの前の床に座り、顔を覆っている両手にそっと触れる。

「……ローレンス様、わたくしを見て下さい」

「……無理だ」

「駄目です、その手をどけて、わたくしを見て? ね?」


 両手首を掴んで、強引に手をおろす。ローレンスはされるがままだ。そこから出て来たローレンスの顔は、困惑と、恥ずかしさと、ほんの少しの期待が入り混じったような、今まで見たことのない表情をしていた。


 リリアーヌの動悸が更に激しくなる。


 ぼそっとローレンスが呟いた。

「みっともないところを見せてしまったな……」

「そんなこと思いませんわ」

「コンスタンティンの奴……」

「ローレンス様」

「何だ?」

「さっき仰ったこと、本当ですか?」

「……」

「ね、聞かせて?」

「……」

「お願い、ローレンス様?」


 ようやく心を決めたのか、ローレンスが顔を上げた。

「本当に決まってるだろう」


 リリアーヌの唇が震えた。

「それなら、どうして出て行けなんて仰ったの?」

「俺は貴女に愛していると言う資格がない。こんな世間から蔑まれるやくざな悪徳高利貸しの、こんな醜い傷のある……」

「やくざな悪徳高利貸しで顔に傷があると、人を愛してはいけないのですか?」

「それは……」

「それならわたくしは伯爵夫人の身で街金から借金をして、夫がある身で独身の殿方の家に住み込みで働いて、あげくに婚家から離縁状をむしり取った身持ちの悪い女ですわよ? わたくしは人を愛してはいけませんか?」


「貴女はそんな人ではないよ」

「貴方もです」


 ローレンスがはっとした顔でリリアーヌを見つめた。

「世間が何と言おうと、わたくしは貴方を知っています。貴方は強くて、優しくて、正義感溢れる立派な方ですわ。お仕事やお顔の傷が何だと言うの」

「リリアーヌ……!」

 リリアーヌの目が潤む。

「やっと、名前だけで呼んで下さいましたわね……あの日もそうやって呼んで、わたくしを絶望の淵から引き戻して下さいましたわ……」

「リリアーヌ……リリアーヌ……俺は……」

「もう一度仰って下さい、ローレンス様。コンスタンティン先生にもアランさんにも聞こえないよう、わたくしだけに聞こえるように」


 ローレンスの震える両手がリリアーヌの頬を包み、顔を上げさせた。そして、ゆっくりと言った。


「愛している、リリアーヌ」

「ローレンス様……!」


 いつの間にかローレンスも椅子から床に降り、リリアーヌを抱き締めていた。熱に浮かされたように繰り返す。


「愛している、愛している、リリアーヌ……もうずっと前から……貴女を愛している……」

「もっともっと聞かせて、ローレンス様。今までの分も……」

「ああ、何度でも言おう。リリアーヌ、愛している……」


 そしてそっと顔を離すと、指でリリアーヌの涙を拭いながら、遠慮がちに尋ねた。

「訊いてもいいか?」

「何でしょうか?」


「俺は貴女を愛しているが、その……俺からも貴女に愛をうても……いいのだろうか……? 俺の想いの数分の一でも、貴女は俺を想ってくれるだろうか……?」


 リリアーヌは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに頬を染めて答えた。

「もう、ローレンス様ったら、どうして分かって下さらないの?……お慕いしています、ずっと前から。誰よりも、お慕いしています……だから、もう離さないで」

「ああ。離すものか」


 二人の視線が絡み合うと、リリアーヌが目を閉じた。ローレンスの唇がリリアーヌの唇をそっと捉えた。

 一瞬だけ触れ合うとローレンスは唇を離したが、リリアーヌの上気した顔を認めるとすぐに今度はより深く、激しい口づけを交わしたのだった。


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