(この金を持って、ここを出ていきなさい)
思考を止めてしまったリリアーヌの頭の中で、この言葉だけがずっと反芻されている。
「……ローレンス……様……?」
(嘘……よね……?……わたくし、何か、聞き違いをしているのよね……?)
「今、なんと仰いました……?」
驚きのあまり喉がカラカラになり、掠れた声でリリアーヌはローレンスに問いかけた。
だが返ってきたローレンスの返答は、あまりにも残酷すぎるものであった。
「貴女をここに置いておく訳にはいかない」
「そんな……何故……」
「……分かるだろう? 貴女は若い独り身の女性で、俺は男だ。そんな人間同士が一つ屋根の下に暮らすことは許されない」
「でも、でも……では、わたくしは……どこへ行けば……」
「その金でやり直すんだ。自分の人生を生きると言っただろう? その時が来たんだ。……
「まさか、ローレンス様、ご冗談……ですわよね?」
リリアーヌはローレンスがいつものように口の端で微かに笑ってくれないかと必死に取り縋ったが、ローレンスの表情はぴくりとも動かなかった。
「冗談ではない、本気だ。……さあ、話は終わりだ。部屋へ戻って荷造りをしてくれ。明日の朝……」
「嫌です」
無理やり会話を終わらせて立ち上がろうとしたローレンスの耳に、それまで聞いたこともないようなリリアーヌの決然とした声が聞こえた。
「頼む……黙ってここから出て行ってくれ……」
「嫌です」
「こうするのが一番いいんだ……俺を……困らせ……」
「いやです!!」
ローレンスの言葉を遮ってリリアーヌは叫んだ。
「嫌です! 嫌です! 絶対に嫌ッ! わたくしはどこにも行きません! 誰がなんと言おうと、ここにいます!」
リリアーヌ自身でも驚く、生まれて初めての激しい拒絶の叫びだった。
「それはできない!」
ローレンスも思わず声を荒げるが、リリアーヌは一歩も引かない。
「いやです! なぜ今になって出て行けなどと仰るのですか!? 酷い、酷いわローレンス様! 貴方がそんな卑怯者だったなんて!」
「卑怯者と思いたいならそう思えばいい! 貴女は俺のような男の元にいてはいけないんだ!」
「なぜそう勝手にお決めになるの!?」
「幸せになってほしいからだ!」
「わたくしが幸せになれる場所は、貴方のいるところです! 酷い、ローレンス様……お忘れですか!? 貴方が
「違う!! なぜ分かってくれないんだ!! 貴女のためなんだ!!」
「何をどう分かれと!? わたくしのため? そんなの嘘よ。貴方はご自分の罪悪感から逃げたいだけだわ!! わたくしのためを思っていると言えば、ご自分の心から逃げられると思っていらっしゃるのよ!!」
「何だと!?」
リリアーヌの涙声とローレンスの怒号がぶつかって一触即発となったその時、ドアがノックされて、コンスタンティンがひょいっと顔を覗かせた。
「
その言葉にはっと冷静になった二人を尻目に執務室に入ってくると、書斎机にもたれて面白そうに肩をすくめてみせる。
「何があったんだい、リリアーヌ嬢。貴女がそんな大声で叫ぶことがあるなんて思わなかったよ」
「コンスタンティン先生……」
リリアーヌの目から涙がとめどなく落ちる。
「コンスタンティン、これは二人の……」
「お前はいったん黙れ」
会話に割って入ろうとしたローレンスを片手で制し、コンスタンティンは床に座り込んでしまったリリアーヌに近寄った。
「話してごらん。あのバカに何を言われたの?」
「……ローレンス……さまが……ここから……出て行けと……」
「そうじゃな……」
「だ、ま、れ。そうか、リリアーヌ嬢、それで貴女は何と答えたの?」
「わたくしは、ここにいたいと……」
「出て行くのが嫌なんだね? それは何故?」
「それは……行くあても……ありませんし……それに……」
ローレンスを愛しているから、離れたくないからとは、どうしても言えなかった。なぜなら、口に出してしまったら、伝えてしまったら、拒絶されるのが怖いから。
だがそのリリアーヌの言葉に対するコンスタンティンの返答を聞いて、リリアーヌは驚きのあまり飛び上がりそうになった。
コンスタンティンは平然とこう言ったのだ。
「行くところがないなら、僕のところに来ればいい。リリアーヌ嬢、僕と結婚してくれ」
「へっ!?」
「ええっ!?」
同時におかしな叫び声を上げて固まった二人に構わず、コンスタンティンはリリアーヌの手を取り、立ち上がらせながらこう続けた。
「聞こえなかった? リリアーヌ嬢、僕と結婚してくれ」
「せ、先生!? 正気ですか!?」
リリアーヌは何が起きているのか全く理解が追い付いていないようだった。だがその時コンスタンティンはリリアーヌの耳元に顔を寄せ、素早く
「大丈夫、
そしてローレンスに気づかれないようにこっそりとリリアーヌに向かって片目をつぶって見せた。
「ああ、正気だよ。僕はね、初めて見た時から貴女に恋していたんだ。医者が患者にそんな不埒な気持ちを抱いてはいけないとずっと黙っていたんだけど。でも貴女もすっかり元気になったからもう患者ではないし、だったら正々堂々と申し込んでもいいよね?」
「おいちょっと待て、コンスタンティン」
「この屋敷ほど立派ではないけど僕も一応王都に自分の家があるし、贅沢はできないけど食べていくのに不自由はさせないよ。どう、悪い話じゃないと思うけど?」
「ま、待て、勝手に決めるな」
だがコンスタンティンの意図をなんとなく理解したリリアーヌは嬉しそうにほほ笑んでみせた。
「先生、そのお言葉、信じても良いのですか?」
「ああ、勿論。こんな強面ですぐに怒鳴り散らすローレンスなんかより、僕の方がずっと貴女を幸せにしてあげられると思うよ。よし、善は急げだ。じゃあローレンス、そういうことだから」
「待て、待て、コンスタンティン。待ってくれ、リリアーヌ!」
焦って引き留めるローレンスを無視してリリアーヌの手を掴んだコンスタンティンが執務室を出て行こうとしたその時、ローレンスが物凄い勢いで執務室のドアの前に立ちふさがり叫んだ。
「ダメだ! お前には渡さない! いや、お前だけじゃない、誰にも渡さない!!」
「え、だってローレンスがリリアーヌ嬢に出て行けって言ったんだろう? 何で今更そんなこと言うんだ?」
妙に冷静なコンスタンティンの言葉に、完全に頭に血が昇ったローレンスは声の限りに叫んだ。
「愛してるからだ!!」
「誰を?」
「決まってるだろう! リリアーヌをだ!!」
「えっ……」
その場が静まり返って、ローレンスは我に返った。
沈黙を破ったのはいつも通りのコンスタンティンの声だった。
「リリアーヌ嬢、聞いたね?」
「え、え……」
次にコンスタンティンは廊下に向かって声をかけた。
「アランも聞いたね?」
「確かに聞きました、モルダー医師」
いつから控えていたのか、扉の陰からアランの柔らかい声が返ってくる。
最後にコンスタンティンはゆっくりとローレンスのほうを向いた。
「もちろんお前にも聞こえたな?」
「あ、ああ……」
するとコンスタンティンはリリアーヌの手を引いてローレンスの前に立たせ、肩をポンポンと叩くと言った。
「じゃあ僕は帰るよ。あとはよろしく」
そして後ろ姿で手を軽く振り、廊下にいたアランに目配せして一緒に階段を降りて行った。
アランがコンスタンティンに声をかける。
「モルダー医師、なかなかやりますな」
コンスタンティンは声を上げて笑うとこう返した。
「本当に面倒臭い男だ。ああでもしないとあの二人、永久にあのままだからね。僕は友達思いなんだよ」
アランもニヤリと笑ってこう続けた。
「どうですか、たまには一杯やりませんか」
「お、良いこと言うねえ。その話乗った」