王都の一年は、春から秋は短く、冬が長い。
気が付くともう街の人々は外套に身を包み、市場では温かいワインが売られるようになった。
ローレンスの屋敷でもほとんど一日中暖炉に火が入っている。
リリアーヌはいつものように茶の支度を整えると執務室の扉をノックした。
「入りなさい」
執務室に入ると、その日のローレンスは書斎机ではなく、暖炉の前の肘掛け椅子に腰を掛けていた。
珍しいこともあるものだとリリアーヌは思う。
その年の夏と秋のほとんどを療養生活に費やしてしまったリリアーヌだったが、ようやく二週間ほど前から以前と同じ生活に戻れるようになった。
だが肋骨の痛みだけがまだ抜けきっておらず、急に立ち上がったり咳をしたりすると時折、激しい痛みに襲われる。
そのことをコンスタンティンに相談したところ、前のようにきつく締めあげるのは良くないが、緩いコルセットを使ってある程度姿勢を固定したほうが良いかもしれないと言われた。試してみるととても具合が良かったので、最近はそうしている。
そのため着るものもあまり負担にならないよう、軽いシルクウールやカシミアで仕立てたゆったりめのシルエットのドレスを選ぶようになっていた。
「ローレンス様、お茶はどちらへ」
リリアーヌが問うと、ローレンスが答えた。
「こちらへ頼む」
ティーテーブルの上でポットからカップに茶を注いで渡すと、ローレンスはゆっくりとカップを持ち上げ、その香りと味を存分に楽しんだ。
「やはり、貴女の淹れてくれる茶は旨いな」
「恐れ入ります」
リリアーヌの回復に伴いローレンスも元の執務室に戻っていた。先日久しぶりにリリアーヌの淹れた茶を再び味わった時、ローレンスは心の底から深い喜びを感じた。
ポットを脇に除けて退室しようとするリリアーヌに声をかける。
「ああ、ちょっとそこへ座ってくれ」
「はい」
言われるままにリリアーヌは向かいに腰を下ろした。ローレンスが口を開く。
「すっかり回復したようで安心した」
「ありがとうございます。思ったより時間がかかってしまって、ご心配をおかけしました。ローレンス様にも、アランさんにも」
「気にすることはない。だがくれぐれも無理はしないように」
「はい」
一呼吸おくとローレンスは立ち上がり、書斎机の引き出しから数枚の書類を取り出すと肘掛け椅子に戻った。
「リリアーヌ嬢、三つほど話がある」
「はい、何でございましょう」
ローレンスは書類の一つを差し出すと、静かに言った。
「今日、地方判事局から届いた。……離縁状だ」
「!!」
リリアーヌは封筒を開けて中身を確認すると、両目を大きく見開いた。
「ローレンス……さま……本当でしょうか……本当に、わたくし、マテオと……」
ローレンスは頷いた。
「本当だ。慰謝料云々の要求もなしだ。今後貴女と一切接触しないという念書も取ってきた。この離縁状を提出すれば、貴女とマテオはもう完全に他人になる」
「わたくしとマテオは、完全に他人……あ……あ」
リリアーヌが熱に浮かされたようにローレンスの言葉を繰り返す。その瞳には喜びと困惑と、目の前の人間への感謝に満ちていた。
だがローレンスは苦しそうにリリアーヌから顔を背けた。
「それから破産の件も、これは貴女と俺の契約ゆえ口出し無用という判断が下った。……だが、爵位と伯爵領は取り戻してやれなかった……何とか離縁後もオルフェウス姓を名乗ることまでは合意にこぎつけたが、それ以上こじれることを考えると、そこまでが精一杯だった。俺の力が及ばず、すまん……」
リリアーヌは瞳を潤ませながら大きく首を横に振った。
「謝らないで下さいませ、ローレンス様……十分すぎるほどですわ。マテオと離縁さえできれば、わたくしは満足です。本当に、何とお礼を申し上げれば良いのか……ありがとうございます……」
ローレンスは一瞬ほっとした顔になった。
「そう言ってもらえると、俺も救われる。では、この条件で問題ないか?問題なければ離縁状にサインを」
リリアーヌはペンを受け取り、すらすらとサインをすると、離縁状をローレンスに渡した。
「これでよろしいでしょうか?」
「ああ。ではこれは明日リチャードに渡しておこう。この後の手続きは全部彼がやってくれる……まず、一つ目はこれで完了だ」
「はい」
次にローレンスは三通の書類をリリアーヌの前に置いて尋ねた。
「二つ目は……これは貴女が俺の配下の街金から金を借りた時の借用書だ。貴女の借金はこれで全部で間違いないか?」
なぜここで借金の話が出てくるのだろう。わたくしとローレンス様との問題だと地方判事が判断したと今言われたばかりなのに。リリアーヌは怪訝な顔で借用書を手に取る。
「これと、これと、これ……はい、間違いございません」
「そうか」
ローレンスは頷くと、突然リリアーヌが予想だにしなかった行動に出た。両手で三枚の借用書を丸めると暖炉の火に放り込んだのだ。
「ローレンス様!? 何をなさいます!?」
「これで貴女の借金はゼロだ」
「い、いけません! 借用書がなければ……ああ、燃えてしまう!」
リリアーヌは急いで火かき棒を手に取ったが、その時には既に薄い紙の借用書は影も形もなく燃え尽きてしまっていた。
ローレンスは立ち上がると、呆然と立ち尽くすリリアーヌの手から火かき棒を取り上げ、両肩を押して再び椅子に座らせた。
「ローレンス様、どういうおつもりですか!? 突然何を……」
「これでいいんだ」
何が起こったのか理解できず詰め寄るリリアーヌを落ち着かせるように、ローレンスはゆっくりと言った。まるで、自分に言い聞かせるように。
「これでいい。もっと早くこうするべきだった。元々、貴女の借金の額など俺にしたら小銭程度だ。こんな形で貴女を縛り付けてはいけなかった。貴女がマテオから無理強いされて借金を作ったと分かった時点で、こうするべきだった。それができなかったせいで、貴女に要らぬ苦痛を与えてしまった」
「そんな……わたくし……ダメです、お借りしたものはちゃんと……」
「いいんだ。それに俺が貴女に毎月払っていた給料で、きちんと返済の実績もできている。貴女に金を都合した街金ともちゃんと話を着けた。帳簿の上でも何らやましいことはないし、貴女の記録は削除した」
「でも……」
なおも何か言いかけたリリアーヌを、ローレンスは片手を挙げて制した。
「とにかく借用書がない以上、貴女の借金は存在しない。だから破産する必要もない。もうこの話は終わりだ。いいね?……よし、では最後」
ここでローレンスは一つ大きく息を吐くと、リリアーヌに一通の小切手を差し出した。
「これは、何でございますか?……こんな大金……」
そこにはリリアーヌ一人であればゆうに十年は暮らせる額が記されていた。リリアーヌは震える手の中の小切手を見つめる。
「……これは、今まで陰日向なく働いてくれたことに対する礼と、色々と辛い思いをさせてしまったことへの詫びだ……これで足りるとは思ってないが……」
そして言葉を切ると俯き、やがて顔を上げて、絞り出すような声でリリアーヌに告げた。
「この金を持って、ここを出ていきなさい」
リリアーヌの手から、小切手がはらりと落ちた。