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第22話 すれ違い

 リリアーヌがローレンスの屋敷に戻って来てから一ヶ月以上が過ぎたが、彼女は早々に自分の状態が予想以上に酷いことを認めざるを得なかった。


 マテオに殴られた全身の打撲の痛みはもうほとんど癒えていたが、肺炎がぐずぐずと尾を引き、咳をするたびに肋骨の怪我もあって意識が遠のくほどの痛みに襲われた。

 微熱もずっと続き、そのせいか毎晩のように悪夢にうなされてほとんど眠れない。

 またこの年は例年に比べて異常に春が短く、今はもう既に初夏に近い陽気で、更に良くないことにいつもの初夏に比べるとじっとりと汗をかくような蒸し暑い日が続いており、それもリリアーヌの回復を遅らせていた。


 ローレンスはそんなリリアーヌを心配して、あの日以来、客室の隣の部屋を執務室兼寝室にして、ほとんどそこに籠っている。

 だがそんなローレンスの気遣いも、今のリリアーヌにとっては負担だった。


 ローレンスはリリアーヌの寝台のサイドテーブルにベルを置くと、できるだけ安静にしているように、何か用があったら必ず鳴らすようにと言い聞かせたが、リリアーヌはどうしてもそのベルを鳴らすことがはばかられてしまうのだった。

 本当にちょっとしたこと、例えば身体の向きを変えたいとか汗を拭くタオルがほしいとか、そんなことすら自由にならない自分の体調が恨めしく、かといって毎回ローレンスの手を煩わせることをどうしても躊躇ためらってしまう。

 それで結局ギリギリまで我慢して、ローレンスがコンスタンティンからもっと気を配ってやってくれと怒られていることも(当然二人ともリリアーヌには言わないが)何となく分かってしまうのも辛いのだった。


 その日、ローレンスが仮の執務室でどうしても今日中に決済しなければならない書類に目を通していると、突然隣の部屋から何かが倒れるような大きな音がした。

 弾かれたように立ち上がって、廊下を走る。


「どうした! 大丈夫か!?」


 音を立ててドアを開けたローレンスは、そこに広がる光景に肝を冷やした。

 サイドテーブルと椅子が倒れて、その横にリリアーヌが横たわり、息をゼエゼエと言わせている。


「どうした!? 何があった!?」


 ローレンスは駆け寄ってリリアーヌを助け起こした。真っ青な顔をして脂汗をかいている。


「無理に起きてはいかんとあれほど言っただろう! 何故俺を呼ばない!?」

「すみ……ません……ローレンス……様……お騒がせ……して……」

「そんなことはいい。どうした? 何か必要か?」


 ようやく少し呼吸を整えたリリアーヌが、弱々しい声で答えた。


「……吐き気がするので化粧室に行こうと思ったのですが、足が動かなくて……」


 今朝はまた特に湿度が高く、どんよりとした雲が低く空に垂れ込めて時々吹く風もむうっと生温く、病人ではないローレンスさえもいささか気が滅入るような陽気だった。

 リリアーヌは運ばれてきた朝食をなんとか言い訳がつく程度にはと無理に口に押し込んだが、それが良くなかったらしい。もっともその量もスープを二、三匙とほんの少しのパン、オレンジ一切れだけだったのだが。

 横になって目を閉じていればそのうち治まるだろうと必死で自分に言い聞かせたが、むしろ時間が経つにつれてどんどん吐き気が酷くなった。


(ここで吐いたら寝台を汚してしまう……どうにかして化粧室に……駄目、ローレンス様のお手を煩わせる訳にはいかないわ……ただでさえずっとご心配をおかけしているのに)

 リリアーヌは自分を奮い立たせた。大丈夫、たったあれだけの距離ぐらい、歩けないはずがない。


「いた……い……」


 上体を起こすと肺のあたりに激痛が走ったが、なんとか床に足を下すところまではできた。だが立ち上がって一歩踏み出そうとした瞬間、酷い眩暈に襲われて世界がぐにゃりと曲がった。

 咄嗟に近くにあった椅子とサイドテーブルで身体を支えようとしたのだが間に合わず、大きな音を立てて家具もろとも床に倒れ込んでしまったのだった。

 ほとんど残っていない力を振り絞って立ち上がろうと試みても足に全く力が入らず、眩暈と吐き気と胸の痛みのせいで頭を上げることもできなくなっていたところに物音に驚いたローレンスが駆けつけたのだった。


「化粧室に行きたいんだな?」


 そう言うとローレンスはリリアーヌの肩と足の下に腕を差し込んでリリアーヌを軽々と抱き上げた。

「ひ……とりで……行けま……」

「黙りなさい」

 この期に及んでもまだ他人の手を借りることに逡巡しているリリアーヌにローレンスはぴしゃりと言うと化粧室へ向かった。大柄なローレンスの足だと数歩で辿り着いてしまう。

 そのまま化粧室のドアを開け、洗面台の前のスツールにリリアーヌを座らせるとぶっきらぼうに言い捨てて、返事も聞かずドアを閉めた。


「外にいる。終わったら声を掛けなさい」


 しばらくするとドアの向こうから微かな呻き声とすすり泣きが聞こえてきた。どうやら本当に吐いてしまっているようだ。ローレンスの胸がチクリと痛む。

(俺は何に腹を立ててるんだ……? 相手は病人だぞ……どうして優しくしてやれない……?)


「終わりました……」

 震える声で呼びかけられて我に返ったローレンスがドアを開けると、リリアーヌは座ったまま化粧台に突っ伏していた。

「掴まって」

 ローレンスは来た時と同じようにリリアーヌを抱えて化粧室を出た。その時腕の中のリリアーヌがあまりにも軽いことに気づいて愕然とした。

 もう自力で立ち上がることを諦めたのだろう、今度はリリアーヌは素直にローレンスの腕に収まっていた。

 そのまま寝台にそっと寝かせ、毛布を胸のところまで掛けてやる。力なく目を閉じて大きな溜息をついたリリアーヌの手を取ると、その手首がまるで枯れ枝のように細いことが理由わけもなくまたローレンスの胸をざわつかせた。


「ローレンス様?」


 手首を掴んで離さないローレンスにリリアーヌが疲れた声で問いかけた。


「……ずいぶん痩せたな」


 リリアーヌははっとした顔になり、消え入りそうな声で答えた。

「申し訳ありません……」

「食事をほとんど取ってないそうだが、口に合わんのか?」

「いえ、そんなことは。食べなければとは思うのですが、あの……喉を通らなくて……」

「何か食べたいものはないのか? あれば用意するから」

「いいえ、大丈夫です……これ以上ご迷惑を……」


 その言葉がローレンスの心のザラつきを逆撫でした。ローレンスはリリアーヌの腕をゆっくりと下ろすと、冷たい声で問いかけた。


「何が迷惑なんだ?」

「え?」

「なぜ貴女はいつもそう言う? 誰かが俺は貴女に迷惑していると言ったのか? 誰だ? アランか? コンスタンティンか? それとも商会の奴等か?」

「え……あの……」

やりたくてやっているんだ、貴女が何を気にする必要がある?……貴女はいつも、迷惑とか申し訳ないとかもう十分ですとしか言わない。うんざりだ!」


 リリアーヌは何が起こったのか理解できないような顔で固まっていたが、やがて顔を背けると言った。

「気をつけます……もう一人にして頂けませんか」

 言葉は普段通りだが、はっきりと拒絶の色を見せられて、ローレンスはそれでもまだ冷静さを保ちながら部屋を出て行こうとした。だが、その時聞こえて来たリリアーヌの小さな呟きが追い打ちをかけた。


「死ねば良かった……」


「今、何て言った!?」


 ドスドスと足音を立てて寝台に戻ると、ローレンスは怒鳴りつけた。

 だが、怯えて黙り込むかと思われていたリリアーヌも肘をついて半身を起こすとローレンスに負けないぐらいの剣幕で叫んだ。


「あの時死んでいれば良かったと言ったんです! わたくしがこの先生きることに何の意味があります? なぜわたくしだけこんな苦しみしかない世界で生きていかねばならないのですか!? もう沢山です! もう楽になれると思ったのに!」

「生きてるからだ!! 死ねなかった以上、生きていかなきゃならないからだ!! そこに理由なんてあるか!!」


 そしてローレンスはリリアーヌの息が感じられるほどの距離に顔を近づけると、恐ろしい低い声で吐き捨てた。


「俺の前で次に死にたいなどと言ってみろ、望み通り殺してやる。覚悟しとけ」


 そしてリリアーヌを一切見ることもなく荒々しく部屋を出ると、激しい音を立ててドアを閉めた。

 その声はリリアーヌが知っているいつもの穏やかで低い声でも、あの廃屋に助けに来てくれた時の闇を照らすような力強い声でもなく、そう……冷酷な高利貸しが街のろくでなしを屈服させる時の声そのものだった。


「畜生……」

忌々しげに呟いて俯いたローレンスの足元の視界に男の足が入った。顔を上げると目の前にアランが静かに立っている。

「聞いていたのか」

「あんな声でお話しされていれば、嫌でも聞こえます。……旦那様」

「分かってる。言うな」


何か言いかけたアランを遮って執務室に戻ろうとしたローレンスだったが、前に立ちふさがったアランに遮られた。普段のアランからは考えられない行動だ。

「僭越ながら旦那様……リリアーヌ殿はとは違います」

「何だと?」

「リリアーヌ殿はご自分で道を切り開いていけるお方です。旦那様も分かっておられるのでしょう?」

「だったらどうした」

「今リリアーヌ殿に必要なのは時間と立ち直るきっかけです。旦那様、旦那様はリリアーヌ殿と肩を並べて歩きたいのですか? それとも子犬のように首輪をつけてご自分の思うままに飼い慣らしたいのですか?」

「お前……俺を怒らせたいのか」


アランは怯まない。


「今の旦那様は、と同じですよ。やり方が違うだけで。では」


慇懃に礼をして去っていくアランのゆっくりとした足音が、ローレンスの記憶の扉を開けた。


と同じ、だと……?……そんなことは自分が一番よく知っている。だから今まで誰も愛さずに生きて来たんじゃないか……だが……俺は結局呪われた存在のままなのか……憎い、俺はこの身体に流れる血が憎い……

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