リリアーヌがフィッツジェラルド邸にやって来てから、二週間余りが過ぎた。
ローレンスの身の回りの世話と聞いていたが、実際蓋を開けてみると彼はすこぶる多忙でほとんど家におらず、当初リリアーヌの手が必要となる時はほんの僅かであった。
彼女の仕事の多くは、たまに帰宅するローレンスに食事を出すことだった。と言っても豪華なものは要らない、スープにちょっとした料理があれば良いと言われていたので、それほど気負わず作ることができたのは有り難かった。
初めてリリアーヌが
ナイフとフォークを持ったまま黙って首を傾げているローレンスを見て、リリアーヌはおずおずと尋ねた。
「あ、あの、お口に合いませんでしたでしょうか……やはり専属の料理人をお雇いになったほうが……」
「いや、そうではない。とても美味い。それで驚いていたのだ」
リリアーヌの表情が一瞬、ぱっと明るくなった。
「良かった……」
初めて見たリリアーヌの笑顔はローレンスを少なからず驚かせた。こんな顔もできるのか、と。
「ローレンス様、何か?」
思わずリリアーヌの顔をまじまじと見つめてしまっていたらしい。問いかけられて我に返るとローレンスは決まり悪さを誤魔化すように立って給仕をしているリリアーヌに言った。
「貴女は食べないのか?」
「わたくしは後で厨房で頂きます」
「それでは料理が冷めてしまうだろう。よければ一緒にテーブルに」
だがリリアーヌは毅然として静かに首を横に振った。
「それはなりません。わたくしはローレンス様に雇われている身で、客ではございませんから」
「……そうか」
そのまま黙って食事を済ませるとローレンスは食器を下げているリリアーヌにこう言った。
「落ち着いてからで構わないから、茶を頼む」
しばらくしてから執務室に運ばれてきた茶を口にして、ローレンスは同じことを思ったのだった。
(昨日と同じだ。やはり美味い)
フィッツジェラルド邸での生活は、リリアーヌにとっても驚きであった。
アランに案内された部屋は、使用人が住むような屋根裏や階段下の暗く湿った部屋ではなく、日当たりの良い美しい客室だったのだ。
天井が高く、バルコニーに面した大きな窓には深いブルーの地に金の房飾りがついたカーテンが掛けられている。
天蓋付きのベッドもカウチもテーブルも豪華な彫刻が施されていて一目で高級品であることがわかるものだったし、更に寝室の続きには当時としては最先端の設備である浴室と化粧室まで完備されていた。
「こちらの部屋をお使い下さい」
「アランさん、これは何かの間違いではないですか? わたくしはこのお屋敷にご奉公に参ったのです。こんな立派なお部屋を使わせて頂くわけには」
だがアランは顔色一つ変えずに答えた。
「旦那様のご命令ですので。それに他は閉め切っていて、すぐ使える部屋がないのです。では後ほど。夕食は8時ですので、仕事に入られるまではゆっくりなさって下さい」
「あ、あの!」
リリアーヌは慌ててアランに声をかけたが、アランは一礼するとスタスタと部屋を出て行ってしまった。
(どうしよう、こんな扱いをされるとは思っていなかったのに)
少ない荷物を片付けてからしばらくの間、滑らかな絹地が張られた椅子に腰かけて庭の景色や部屋の調度品をぼんやりと眺めてみたものの、どうにも気が落ち着かない。ふとその理由に気づいた。この屋敷は静か過ぎるのだ。
ここには彼女に投げかけられる悪意にまみれた罵声も、嘲るような甲高い笑い声もない。あるのは張りつめてはいるが静謐でどこか穏やかな空気だけだ。
その静けさを楽しむという感情すら自分がすっかり忘れていたことに気がつくと、リリアーヌはそっと目を閉じた。
(こんなにも気が休まったのは、本当に久しぶり……)
そして一時間ほどその静けさを楽しむと立ち上がり、夕食の準備に取り掛かろうと厨房やリネン室の場所を教えてもらうためにアランを探しに階下へ向かったのだった。
(料理がローレンス様のお口に合って良かったわ)
夕食後、残った細々とした家事を片づけ、自室に戻ったリリアーヌはほっと胸をなでおろした。
リリアーヌが用意した夕食をローレンスはきれいに平らげ、食後のお茶をゆっくりと楽しんでこう言ったのだ。
「これから俺が屋敷にいる夜は、こうして食後に茶を淹れてくれ」と。
それ以外はほとんど口を開くことはなかったが、言葉はなくともやはりこの屋敷には何とも言えない静かでゆっくりとした時間が流れていた。
(本当に、皆が言うような冷酷で残忍な方なのかしら。聞いていた世間の評判とは全く違う気がするのだけど)
リリアーヌにはどうしても心に引っかかるものがあった。
確かに彼の息がかかった街金の事務所で借金を申し込んだり、その後、返済が遅れて幾度も柄の悪い男達から責め立てられたり、挙句の果てにはローレンス本人が家まで押しかけてきて、あのギラリと光る目と左頬の傷をまじまじと見た時の恐ろしさといったら、言葉では言い表せないほどだった。
だが、あの家にいた頃よりも今、この屋敷にいるほうが遥かに心が落ち着くのだ。まだ初日だと言うのに、もうどこか他人の家だとは思えなくなっている自分がいる。
(いけない、わたくしは借金を返さねばならないのよ。ここに遊びに来ている訳ではないわ。それにローレンス様も、今までに何人もの借金が返せなくなった女性を恐ろしいところに売り飛ばしているともっぱらの噂なのだから、安易に信用するのは危険ね)
リリアーヌは頭をぶんぶんと振って、自分の心を引き締めたのだった。
それ以来、ローレンスは家に帰ることが増えた。
本人は自覚していないが、以前なら仕事場で書類の山に埋もれて気づいたら朝を迎えていた、ということも珍しくなかったのだが、最近はそういった仕事は屋敷に持って帰ってくることが増えている。
「お帰りなさいませ、旦那様」
アランに外套と帽子を渡しながらローレンスは自室へ向かった。
「お食事はいかがなさいますか」
「あいにく今日は付き合いで済ませてきた。茶を頼む」
「畏まりました。申し伝えます」
私室の扉を開けると、ほう、と溜息が洩れる。
リリアーヌに家事を任せるようになってから、この屋敷は格段に変わった。元々豪華で隅々まで整えられてはいたが、この二週間余りで更に磨き込まれ、全体に霧が晴れたように明るくなったのがわかる。
糊のきいたベッドのシーツは皺一つなくピンと張り、ガチョウの羽根の枕も布団もフカフカで、枕元にはいつもさりげなく花が飾られている。部屋着に着替えようとクローゼットの扉を開けると、ふわりとラベンダーの香りが漂った。
(大したものだ)
ローレンスが着替えを済ませて執務室に戻ると、ほどなくドアがノックされた。
「入りなさい」
そう声をかけると扉が開き、リリアーヌが茶器を運んで来るのも、もういつものことになっている。
「お帰りなさいませ、ローレンス様。お茶をお持ちしました」
軽く頭を下げると、カップに薫り高い茶を注いでテーブルに置く。
「ああ、ありがとう……これは?」
今日は小皿に入ったとろりとしたジャムが添えられていた。
「温室のバラで作ったジャムです。甘いものがお嫌いでなければお茶に入れるとまた違った味になりますので、よろしければお試しになってみて下さい」
言われるがままローレンスはカップにジャムを一匙落とし、口に運ぶと、驚いた表情になった。
「驚いたな、これは。茶葉の香りにバラの甘さが加わって、なんとも深みのある味だ」
「喜んで頂けて良かったです……では失礼いたします」
「あ、ちょっと待ってくれ」
「はい、なんでございましょう?」
「その……この二週間、非常によくやってくれて助かっている」
ローレンスの賛辞に、リリアーヌは目を伏せて静かに答えた。
「恐れ入ります」
「何か不便なことはないか? 足りないものがあったら貴女の判断で買ってもらって構わない。俺に相談する必要はないから」
「ありがとうございます。すべて満足しております」
「そうか。話はそれだけだ。引き留めてすまなかった」
静かに一礼して部屋から出て行くリリアーヌの姿をいつしか目で追っている自分の心に、ローレンスは気づかないふりをした。
彼女の笑顔を見たのは一度きり、あの日、料理を褒められた時のはにかむような笑顔だけだ。
あの笑顔をもう一度見たい、そう思ってしまう自分を認める訳にはいかない。彼女は使用人で……人妻だ。