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第3話 運命は動き出す

「わ、わたくしが、貴方のお宅の家事を、ですか?」

「ああ、ちょうど長く勤めてくれた婆やが引退してしまって困ってたところだ。悪い話じゃないと思うが?」

「で、でも、貴方のような方なら、いくらでも使用人を雇えますでしょう?」

「……いや、俺は家にあまり使用人を置きたくない。洗濯と掃除と皿洗いは通いのメイドが二人ばかりいるが、基本的には俺と執事だけだ。だから俺の身の回りの世話だけやってくれればいい」

「……」


 半信半疑といった様子で考え込んでいたリリアーヌが顔を上げた。


「本当にお給金を下さいますの? それで借金を帳消しにするということですか?」

「そうなるな」

「でも、金貨300枚と利息ですから、いつ返し終わるか……」

 ローレンスはポケットから手帳とペンを出すと素早く何か計算式を書き付け、それをリリアーヌに見せた。

「給料はこれでどうだ? これなら、3年待たずに完済できる」

「3年……」


 しばしの時が流れた。


「やらせて頂きますわ」


「奥様! なりません!」

 いつの間にかリリアーヌの前に立ちはだかっていた執事が悲鳴のような声で叫ぶ。

「聞いていたのか」

「僭越ではございますが、全部聞かせて頂きました。奥様、なりません。奥様が平民の家で使用人の真似事など……」

「でもヨハネス、そしたら借金はどうやって返すの? うちにはもう売れるものは何一つないのよ」

「わたくしが何とかいたします! どうか、お考え直し下さいませ」


 ローレンスが少しイラついた声で割って入る。

「どっちでもいいから早く決めてくれ。俺は忙しい。うちで働くか、この爺さんに金を工面してもらうか、さもなくば身体を売るか」

「な、何と酷いことを! 奥様の事情もご存じないくせに……」

「止めてヨハネス。いいのよ、もう決めたの。フィッツジェラルド様のお屋敷にご奉公に上がるわ。……旦那様をお願いね、ヨハネス」

「奥様……」

 がっくりと項垂れる執事の肩にそっと手を置いてから、リリアーヌはローレンスにまっすぐ向き直り、腰を屈めてお辞儀をした。

「不束者ですが、精一杯努めます。どうぞよろしくお願いいたします」


 その凛とした瞳に見つめられたローレンスは一瞬たじろいだが、すぐに平静を取り戻してリリアーヌに告げた。

「明日の朝、迎えを寄越す。支度をしておいてくれ」

 そして伯爵家の門を出ると馬車に乗り込んだのだった。


「何だって? それで伯爵夫人がここに奉公に来るだって? お前、気は確かか?」

 ローレンスの屋敷の書斎で大声を上げたのは、幼馴染のコンスタンティン・モルダーだ。

 腕のいい医者なのだが、酒好き女好きで、時々思い出したようにローレンスの屋敷にやって来てはシェリーやらウイスキーやらをあおり、取り留めのないことをダラダラと話しては帰って行く。

 だが今日はローレンスがうっかり口にしてしまったオルフェウス伯爵家での顛末に即座に食いつき、興味津々で根掘り葉掘り質問されて、夫人が明日ここにやって来ることを白状させられてしまった。

「何かおかしいか?」

「おいおい、どういう風の吹き回しだ? 借金が返せないならいつものようにとっととそこいらの娼館に売り飛ばしちまえばいいじゃないか。伯爵夫人が身体を売るなんて、客が大喜びして行列になるぞ」

「別に狂っちゃいない。婆やが辞めて以来、真剣に困ってたからな。一人で家事を全部こなしていると言うのに、屋敷には塵一つ落ちてなかったから、腕は確かだろう。それだけだ」

「ふーん……上玉か?」

 コンスタンティンのあからさまな質問に、ローレンスは改めてリリアーヌの姿を思い出す。確かに彼女は大層美しい。

 豊かに波打つ艶やかな黒髪、透けるように白い肌、ぽってりとした小さな唇、そして何と言ってもあの灰緑色の瞳。だが……とローレンスは考える。なぜ彼女はあんなにも怯えて俯いてばかりいるのだ? そしてなぜあの夫はあんな年増の愛人といちゃつくだけでは飽き足らず、美しい妻をあからさまに辱め忌み嫌っているのだろうか?

「下品だなお前は。まあ、かなりの美人だ。だが社交界で全く見かけた覚えがないのは何故だろう。伯爵夫人ならだいたいの夜会には出席してるだろうに」

 コンスタンティンはそれを聞いて大声で笑い出した。

「そりゃ、そういうお方はお前や俺みたいな下賤な人間なんぞ目に入れることがないからさ。同じ空間にいても、接してる地面の高さが違うんだよ。大体お前の目に入るのは色と欲にしか興味がない爛れたお歴々だけだろう?」

「確かにな」


 笑うのを止めたコンスタンティンがふと真顔になり、グラスに視線を落としたまま呟いた。

「そうか、かなりの美人か。まあ気を付けろ。ミイラ取りがミイラにならんようにな」


 翌朝、リリアーヌは小さなトランク一つを手に馬車から降りて来た。

 フィッツジェラルド邸のただ一人の使用人である執事のアランが執務室のドアをノックして告げた。

「旦那様、お見えになりました」

「入ってくれ」

 遠慮がちにリリアーヌが姿を現す。

「座ってくれ」

「失礼します」

 ローレンスはリリアーヌの前にいくつか書類を並べた。

「これが雇用契約書だ。貴女と個人的に契約しようかとも思ったのだが、うちの商会の従業員として雇う形にしておいた。そのほうが税金やら諸々の手続きが簡単になると思ってそうさせて貰ったが、構わないか?」

「お気遣いありがとうございます。構いません」

「では内容を確認して、問題なければここにサインを」

「はい」


 リリアーヌは書類に目を通すと、ローレンスに手渡されたペンでさらさらとサインをした。


「これは当面の生活費だ。食材は週に二回、市場が届けてくれることになっているから、必要なものがあればその時伝えればいい。他にも細々した支払いがあればここから出してくれ。足りなくなったら補充する」

「承知しました」

 頷いて財布を受け取る。ローレンスは続けた。

「この屋敷の中では自由にしてもらって構わない。ほとんどの部屋は使ってないからそれほど掃除も大変ではないだろう。ただこの執務室は必要に応じてこちらから声をかけるから、基本は入らないでもらいたい。あとはアランに訊いてくれ」

「かしこまりました、旦那様」

 ローレンスがちょっと困ったような顔になった。

「その、旦那様というのはおかしくないか? 貴女には旦那がいるのだから。……ローレンスでいい」

 リリアーヌは一瞬迷ってから答えた。

「はい、ローレンス様」

 アランが声をかける。

「では、こちらに」

「頼んだぞアラン」


 リリアーヌがアランに従って執務室を出て行くと、ローレンスは立ち上がって窓から外を眺めた。


 コンスタンティンの奴、何を言っているのだ。俺があの灰緑色の瞳に惑わされるとでも?

 そんなことは決してない。俺が、ローレンス・フィッツジェラルドが誰かを愛することなど、決してない……。


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