「はあ……また?」
声がした方を見ると、同棲中の彼女が台所で水を流しながら何かをしていた。
彼女は不機嫌そうな顔をして、ガチャガチャと音を立てながら台所のシンクを片付けている。
「ああ、ごめん。あとでやろうと思ってたんだよ」
そこでようやっと、昼食のときに食べた焼きそばの皿や、調理するときに使ったフライパンをシンクに放置していたのを思い出した。彼女はそのことで怒っているのだ。
ぼくはソファでスマホをいじりながら謝ったが、彼女の苛立ちはおさまりそうにないようだった。
「もう、何回言わせるの? 食べ終わったらすぐに洗ってって言ったでしょ? 片付けるまでが料理なんだから」
「悪かったよ。でも、そのくらいでそんなに怒らなくても……」
ぼくはあわててシンクに向かい、彼女の横でお皿を洗い始める。
「そのくらい? そのくらいじゃないの! 注意しなきゃいつまでも治らないじゃない! これが積もり積もって、私がどんだけ毎日ストレス溜めてるかわかってる!?」
彼女の声はさらに大きくなる。
ぼくは反射的に謝るが、彼女の怒りは収まりそうにない。
「落ち着いて。謝るから。終わったら一緒に映画でも観ようよ」
「そんなことよりも、普段からちゃんとしてくれる方が嬉しいんだけど?」
「うん、わかったよ。ごめん、ちゃんとやるから、そんなに怒らないで」
そして二人で皿を洗い終えると、彼女は少しだけ機嫌が治ったようで笑顔を見せてくれた。
後日。
「あなた、またやったでしょ」
またなにか彼女を不機嫌にさせるようなことをやらかしてしまったらしい。
少し考えてみるけれど、心当たりはまったくない。
「何のこと?」ぼくは純粋に疑問を投げつけた。本当にわからなかったのだ。
「トイレットペーパーの向き! また逆にしてるでしょ!」
彼女は肩をいからせてぼくを睨みつける。
「えっ、そんなこと?」
思わず笑いそうになるが、彼女の真剣な顔を見て、そんな状況ではないことを理解する。
「いつも言ってるよね? トイレットペーパーの引っ張る部分が前に来るようにセットしてって。後ろに来ると取りづらいじゃん!」
「いや、俺そんなの気にしたことなかったけど……」
「だからそういうところに無頓着なのが嫌なの!」彼女はヒステリックにぼくに怒鳴りつける。「些細なことだけど、こういうのが積もり積もってイライラするんだよ!!」
彼女はさらに不機嫌そうにソファに深く座り込み、ため息をついた。
「うん、わかった。今度から気をつけるよ」
ぼくは渋々納得して謝りはしたものの、内心ではやっぱり「そんなことでここまで怒らなくていいのに」という気持ちが拭えずに心にモヤモヤとしたものが残った。
「もういいよ。私が直したから」
「前から思ってたけどさ」とぼくは少し気まずい思いをしながら口を開いた。「少し神経質すぎないかな」
これがいけなかった。
ぼくのこの発言が彼女をさらに苛つかせる結果となってしまった。
この家では、ぼくに自分の意見を言う権利などないのだ。
「なによ。わたしが悪いっていうの? あなたがイライラさせてるんでしょ!!」
「うん、ごめん……」
やっぱりぼくは納得できなかった。
数日後。
「ねえ、またやったでしょ?」
「はあ……」ぼくの方も限界に近づいていた。「今度はなんだい?」
彼女はソファの前でエアコンのリモコンを手に持ちながらなにやら怒っている。ぼくはスマホでゲームをしていて忙しかったので、視線を少しだけそちらにやった。
「リモコン、ソファのクッションの下に置かないでって言ったよね? 毎回探すの大変なんだから!」
彼女はリモコンを力いっぱい手にしたリモコンを振り回しながら、ぼくを睨みつける。鬼の形相だ。
「そんなの、ちょっと探せばいいじゃん……」
ぼくは静かに抗議するが、彼女の怒りの波動を感じて、すぐに後悔する。
「探すのが面倒なんだよ! なんでわかんないの?」
彼女はリモコンをテーブルにバンっと置く。
衝撃でものすごい音がして思わずびくっとした。そのせいでスマホゲームの操作をミスしてしまった。
「悪かったから、落ち着いてよ……」
「落ち着いてるわよ!!」
そういって彼女はぼくのスマホを取り上げて部屋の隅にぶん投げた。
ぼくは呆然とした。
今プレイしていたのはオンライン対戦のチームゲームで、もう少しでぼくたちのチームが勝利するところだった。それを台無しにされてしまったのだ。
「ねえ、ちゃんと聞いてるの!? あなたのせいでこんなことになってるってどうしてわからないのよ!?」
「うるさいな……」
いい加減、ぼくの方も限界だった。
おもむろに、立ち上がり彼女に向かってずんずんと歩みを進める。
「な、なによ。暴力? 最低ね! 最低のクズ男!!」
「落ち着けって言ってるだろ!!!」
「きゃっ!」
自分でも信じられないくらいの声が喉から飛び出した。
彼女が怯えるように後ずさるのが見えた。しかし、ぼくの方もいい加減頭に血がのぼってしまい、もう止められそうにない。
「きみはいつもそうだ。リモコンの場所くらい、ぼくにとってはどうでもいいんだよ!」
「わ、わかったわ。私も悪かったから、お願いだから落ち着いて」
「落ち着いてるよ!!」
そういってぼくは理性を失った野生動物のように足元の床をガンガンと踏み鳴らして怒りを発散させた。賃貸の部屋だが、今はそんなことどうでもよかった。
「落ち着いてるよ! どう見たって落ち着いてる! それともきみは、ぼくがどうかしてるって言うのか!? ええ!?」
「そ、そうね。あなたは落ち着いてるわ」
「今さら取り繕ったってもう遅いんだよ!」
ぼくは玄関から斧を持ち出して、彼女のほうへ向かった。
「そ、その斧をどうする気?」
「こうするのさ!」
ぼくは手にした斧を振り上げ、思い切りアパートの壁に叩きつけた。何度も何度も繰り返す。しだいに壁が穴だらけになっていく。
なんだなんだと騒ぎを聞きつけたアパートの住民たちがざわめ始める。
「あああああああ!!!!」ぼくは咆哮した。
「ねえ、お願いだからやめて……わたしも悪かったから……!」
「わたし
「ごめんなさい。ごめんなさい……謝るから、お願いだから落ち着いて……」
「落ち着いてるよぉっ!!!」
次にぼくは机の中から小さなスイッチのついたリモコンを取り出し、ボタンを押した。不快なアラーム音が継続的に部屋中に鳴り響く。
「それ、なに……?」
「核ミサイルのスイッチだよ」
「え……?」
「某国の大統領が死んだら自動的に世界中に核ミサイルが打ち込まれるって話聞いたことある? そのスイッチと同じものがここにあるのさ」
「あなた、なんてことしてくれたの……!!」彼女は怯えた。
「きみが悪いんだ!!!」
彼女が慌ててテレビをつけると、世界各国に向けて核ミサイルが発射されたという緊急ニュースが流れていた。
画面には、空を駆けるミサイルが放物線を描き、地面に向かって急降下し、着弾する映像が映し出されている。
「大丈夫だよ」とぼくは言った。「このアパートの近所には落ちないようにしてある
。きみとぼくは、とりあえず安全さ。今のところはね」
その後、しばらくの間テレビでは被害状況が次々と報じられた。
各地の都市が壊滅し、街は灰と瓦礫に埋もれ、数えきれないほどの命が一瞬で失われたという。被害は数億人にものぼると報道されていた。
その後、テレビカメラにもミサイルが降下するようすが見られ、地面に着弾すると同時に映像が乱れた。テレビにはなにも映っていない映像だけが残された。
「はあ……あなたって本当に」と彼女は呆れたようすでため息をついた。
たしかに、ぼくも少し頭に血がのぼりすぎていたかもしれない。
今更ながら自分の行いを反省する。
「この星にも、もうしばらく住めそうにないわね」
そういって彼女はおもむろにこめかみに設置されていたスイッチを押すと、機械音が鳴って、瞬時に近未来的な防護服で全身が覆われた。
ぼくはそのようすを見て、唖然としていた。
そんななか、彼女はせっせと押入れの中から似たような形状の服を一着取り出し、ぼくに渡してくれた。
「あなたのは旧式だけど。放射線や宇宙線から身を守れるわ。酸素も十分に蓄えられてる。しばらくはこれで大丈夫」
ぼくは突然のことに驚き、眼の前のメカニカルなスーツに身をまとった彼女を前に、なにも言えずにいた。
「なにしてるの? はやく着替えなさい。あなたのそういうところが嫌なのよ。イライラさせないで」
「あ、ああ……」
ぼくは彼女に言われるがまま、用意されたスーツを着ることにした。
はじめて見るデザインでどうすればいいのか手間取ったが、彼女に手伝ってもらいながらようやく着ることができた。
「準備はOKね。じゃあ、出発しましょう」
彼女は落ち着き払ったようすで言い、ぼくの手を握った。
階段を登り、ふたりでアパートの屋根へと出る。もうすっかり陽が落ちていて、星が見え始めていた。
彼女は空に向かってなにか合図をした。
すると、空の彼方から銀色に光り輝く円盤状の物体がゆっくりと降りてきた。月明かりに反射して、幻想的に思えた。
「きみは何者なんだい?」ぼくはようやく口を開いた。
「あなたは自分が何者なのか、わかってるの?」と彼女は聞き返してきた。
ぼくは何も答えられなかった。
そうして、ぼくは彼女に導かれるまま、空から降りてきた巨大な物体に吸い込まれていった。
<了>