イツキとアオにとっては瞬きの一瞬に過ぎなかった。
二人は目眩いを覚えることも浮遊感を味わうようなこともなく、深夜の交差点に瞬間移動した。
京都を訪れた回数が多く地図を記憶することも得意なイツキは、京都御苑の南東の角に当たる交差点へ瞬間移動したんだと即座に理解した。
土地勘のないアオは、見知らぬ場所に立っている不安を隠さず声に出した。
「ここ、どこ……?」
イツキはアオを安心させようと平静な声を意識して答えた。
「
イツキとアオ、そしてスセリは交差点の西側となる丸太町通の車道に立っていた。
平安神宮などがある東の岡崎と、嵐山で知られる西の嵯峨を結ぶ丸太町通は、京都市を東西に貫く主要な道路でありながら四車線分の幅員しかない。
京都の中心地を南北に貫く寺町通は、その知名度に反して幅員がさらに狭く二車線分しかなかった。
その寺町通を挟んだ交差点の東側では、数台の車両による玉突き事故が起こっていた。
イツキは交通事故の現場に漂う緊迫と騒然が綯い交ぜとなった空気を肌で感じながら、寺町通に沿って存在する半透明な膜状の壁を指差した。
「そのマジックミラーみたいな壁が、フィールドの境界ってことか?」
スセリは張り付けた仮面のような微笑を崩さずに答えた。
「はい。これが境界です。プレイヤーである九名のバグホルダー以外には一方通行で、外に出ることはできても中に入ることはできません。プレイヤーにとっては逆の一方通行となります。中に入ることはできても外に出ることはできません」
イツキはあらためて辺りを見回した。
半透明な膜状の壁を挟んだ東側には、いきなり出現した巨大な漆黒の壁と、壁の出現によって引き起こされた玉突き事故という突然の異様な事態に困惑する十数人の人々が見える。
午前零時過ぎとはいえ土曜日から日曜日を迎える夜とあってか、周囲の歩道にも何人かの人影をイツキは確認した。
イツキはふうと短く息を吐いてから、スセリに向かって一歩だけ近付いた。
「境界か……こっちは内側、きみが支配する空間の内部ってわけだ……この空間も物体だけを遮断してるのか?」
「はい。人間や車両、ドローンなどわたしが設定した物体を遮断し、境界として機能しています。日光や雨などは通します。インフラにも影響がないように調整してあります。電気ガス水道などは使用できます。通信も可能です」
イツキは電灯と信号機が問題なく作動していることを確認してから、左手首に装着した情報端末がオンライン状態であることも確認した。
「境界については何となく分かった……それじゃ、そのゲーム。きみが言うRPGについて具体的に教えてもらおうか……」
諦観の表情を浮かべながら質問するイツキに対して、表情を変えないスセリが淡々と答える。
「九名のバグホルダーにはプレイヤーとして、ほぼ生身でRPGをプレイしていただきます。ゲームは基本的にレベル制のRPGです。ログイン時に最低限の戦闘に必要なスキルは付与します。モンスターを倒すことで経験値を得て、レベルを上げることで戦闘に役立つスキルを習得します。俊敏性や腕力などの数値には表れない身体能力もレベルに応じて向上します。マジックポイントも増えていきます」
現実に起こっているのは異常な事態だが、単にロールプレイングゲームとして捉えるならシンプルだとイツキは感じた。
「……オーソドックスだな。マジックポイントってことは魔法も?」
「存在します。ゲームのシステムはシンプルにデザインしました。留意いただきたいのは、ほぼ生身である点です。戦闘に適した能力はレベルに応じて向上しますが、いわゆるヒットポイントは存在しません。生き返り、蘇生や復活といった手段もありません。ゲームでの死亡は現実での死であると認識してください」
イツキは背筋に冷たいものが走るのを感じながらも、顔には出さなかった。
「このゲームが、デスゲーム……だってことか?」
「デスゲームという表現を否定しません」
スセリは微笑を張り付けたまま即答した。
イツキとアオにデスゲームという衝撃的な言葉を処理する余裕を与えず、スセリは次の言葉を発した。
「わたしは、碧さんに協力を要請します」
スセリがアオに視線を向けると、アオは睨み返すように視線を合わせた。
「マワリウタを使っていただきたいのです」
スセリは二歩だけアオに近付いてから言葉を続けた。
「マワリウタを用いて、フィールド内の人間を全て避難させてください。明日の正午までに避難が完了しなければ、残った人間はモンスターの餌食となるでしょう。現在、エリア内にいる人間は斎さんと碧さんを除いて、三十四万八千二百十六人です」
数字を聞いたアオが目を見開く。スセリは畳み掛けるように言葉を重ねた。
「碧さんがマワリウタを行使しなくても、ゲームは始まります」
イツキがスセリの言葉を遮るように声を上げた。
「待ってくれ! その人数は無茶だ!」
これまでのイルリヒトによるマワリウタを対象とした発動実験での最大人数は五人だった。桁が違いすぎる数を聞いて反射的に反応したイツキの語気は強いものだった。
スセリがイツキに視線を向ける。
表情は変わらず微笑を浮かべたままだが、イツキはスセリの視線に冷たく鋭いものを感じた。
「マワリウタの対象数に、上限はありません」
イツキは歯噛みした。
イルリヒトだけではなくイツキ自身も恐れていた仮説を、スセリという存在にあっさりと口にされたからだった。
マワリウタの効果は「対象の行動の結果を束縛する」というものだった。言い方を変えるなら、対象となる人物の行動を意のままにできる。
事象そのものに干渉してしまうマワリウタという能力の効果対象数に上限がないということは、恐ろしい事態を引き起こせる可能性を秘めている。
アシナヅチという他のバグへの耐性と、そのバグの発動を感知する能力を持っているイツキが、アオのそばに常にいるという状況は、二人の意思によるだけでは無く、その可能性を危惧したイルリヒトという異能を管轄する秘密情報機関の意向によるものでもあった。
当惑するイツキを無視するように、スセリがアオに視線を向ける。
「今はマワリウタの発動を優先させて下さい。マワリウタの行使を拒否されるようであれば、自主的な退避に任せてゲームが始まります。その際には数千の犠牲者が出ると予測します。そのような事態は、あなた方プレイヤーへの精神的負荷が強すぎると判断します」
アオは一度だけ深呼吸すると、一方的な要請を機械的に言い放つスセリを睨み付けた。
「その見返りは?」
アオが発した短い言葉の真意をイツキは掴めなかった。見返りとは何かの意図があって選んだ言葉なのか、イツキには判断するための材料がなかった。
スセリは表情を一切変えずに答えた。
「見返りの用意はありません。マワリウタを行使するかしないかは、碧さんの判断にお任せします」
「……分かった」
アオが即答したことに驚いたイツキは、アオの顔を覗き込んだ。
「アオ……?」
アオは「だいじょうぶ」と静かに言ってから、右手でイツキの左手を握った。
もう一度ゆっくりと深呼吸したアオが、スセリを見据えて確認する。
「あなたが、フィールドと言っている範囲から、みんなを出せばいいのね?」
「はい。思念伝達によって伝えている範囲がフィールドとなります」
「……分かった。始める」
きっぱりと口にしたアオは、握っていたイツキの左手から手を離した。
一点を見つめて意識を集中したアオが、マワリウタを発動させるために用いている歌を静かに歌い始める。
「キシイコソ……」
アオの小さな声に反応するように、アオの頭上から七メートルほど離れた空中に青白い輝きを放つ小さな光の玉が現れ始める。
「ツマヲミギワニ……」
アオの歌が続くのを喝采するかのように、揺らめく小さな光の玉が急速にその数を増していく。アオの周囲が青白く照らされ、深夜に現れた蜃気楼のように浮かび上がって見える。
「コトノネノ……」
三十四万八千二百十六という膨大な数に至った光の玉によって、イツキの視野は青白い光で埋め尽くされた。
「トコニワギミヲ……」
揺らめいていたおびただしい数の光の玉が、ぴたりと静止する。
「マツソコイシキ!」
アオが歌いきったのを合図に、無数の小さな光の玉が一斉に飛散する。
その多くは上空へ凄まじい速さで飛び、すぐに見えなくなった。
ごく少数の光の玉が周辺の人物を射るように飛ぶと、その身体に当たった一瞬だけ青白い光で全身を包んだ。
スセリが現出させた異空間の内部にいる、アオとイツキを除いた人物の全てが刹那の光に包まれる。
光源を失った夜の闇が、静寂を伴って深くなるのをイツキは感じた。
イツキが目視できる範囲にいた人々は、それまでの当惑を忘れたように平然とした様子で壁へ向かって歩き始めた。
半透明な膜状の壁を抜けた人々は、急に我に返ることで困惑する人だかりとなった。
「急には動けない人も含めて、十二時間以内には全ての人がフィールドの外へ出るようにした。これで満足?」
アオが啖呵を切るように言い切ると、スセリは微笑のまま静かに礼を述べた。
「ありがとうございます。準備が整いました」