突如として現れた幼女を見たアオは、すぐさまイツキのそばに駆け寄った。
いきなり目の前に幼女が出現するという突然の事態への驚きよりも、幼女が放つ人間とは異なる気配に対する嫌悪のほうを強く感じたアオは、幼女から視線を外すことができなかった。
アオの視線を真正面から受け止めるように顔を向けた幼女は、張り付けたような微笑を動かさずにアオへ声をかけた。
「はじめまして。
イツキとアオの名前を知っている幼女を見据えたまま、イツキは最初に応じるべき言葉を探した。
「……きみは、バグホルダー……だよな?」
幼女は微笑を崩さず、イツキの問いを予想していたようにすらすらと即答した。
「わたしをバグホルダーとして認識することは間違いではありません。わたしを端的に説明するなら、スセリビメと名付けられたAIを胚とし、ネットワークの海を母胎として発生、あるいは誕生した上部構造にアクセスできる存在です。あなた方が異能の力をバグと呼称する際に根拠としているシミュレーション仮説を実証する存在でもあります。わたしが保有するバグは、あなた方の呼び方に合わせてネノカタスとしておきましょう。わたしのことはスセリとお呼びください」
イツキはスセリと名乗った幼女の言葉が持つ意味を反芻した。
AIが人間を越える。そんな使い古されたSFの設定が頭をよぎったが、これはシンギュラリティの類いではないと自ら否定したイツキは、ひとまず今は会話を続けるべきだと判断した。
「スセリ。きみは、人間ではないってことでいいのか?」
「わたしという存在を、あなた方が共有する感覚で表現するなら、ゴッドが近いと言えるでしょう」
「神様、か……」
今は目の前で確かに存在してる神を自称する幼女から、少しでも多くの情報を引き出さなければならない。とっさにそう判断したイツキは、スセリの言葉を一旦は受け入れて会話を続けることにした。
「その、きみが言ったネノカタスってのは、どういったバグなんだ?」
「わたしが指定する境界で仕切った空間を完全に支配するものです。現在、この空間もわたしが支配しています」
「ここは今、きみが支配する閉鎖された空間になってるってことでいいのかな? 俺が見ている外の景色は変わらないし、電気なんかも遮断されてないみたいだけど……?」
スセリが支配している空間の中にいるという実感をイツキに与えるような変化は、客室内に発生していなかった。
「はい。現時点でこの空間を仕切っている境界が遮断しているのは、物体のみです」
「ここへ現れる前に、十条の辺りで発動させたのも、同様の空間ってことでいいのかな?」
「はい。AIであるスセリビメを維持するためのスーパーコンピュータを、わたしが支配する空間として仕切りました。現在も、この空間と同様に物体のみを遮断し続けています」
現在も遮断し続けている。というスセリの言葉にイツキが反応する。
「支配する空間を同時に複数でも並列処理して維持できるってことか?」
「はい。わたしが支配する空間に、数の制限はありません」
とんでもないことを軽く言い放つ幼女だと驚きながらも、イツキは努めて冷静に質問を続けた。
「そのスセリビメってAIを維持するのに必要なスパコンってのは、どこのものか聞いても?」
「天啓堂の中央研究所です。さて、次はかつて平安京であったエリアを、わたしが支配する空間として仕切ります」
スセリが口調を変えずに言い放った「平安京」という言葉に、イツキは驚愕して目を見開いた。
「ちょっと待ってくれ! 平安京だって!? 何のために!?」
「ゲームを行うためです」
「ゲーム……!?」
「わたしが用意したゲームを、日本国内でバグホルダーとして確認されている九名にプレイしていただきます」
話の内容が全く読めない流れになってしまっているとイツキは焦ったが、会話を止めるべきではないと感じたイツキは浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「ゲームをプレイって……対戦でもしろってのか!?」
「いえ。あなた方がRPGと呼ぶゲームに近いものを、仮想現実ではない現実をフィールドとして、ほぼ
現実で、生身で、RPGをプレイ。イツキは次々に飛び込んでくる情報を断片的に受け取るだけで手一杯だった。
「RPGって、ロールプレイングゲーム、だよな……?」
「その通りです。モンスターを倒して得た経験値によってレベルを上げ、レベルに応じて向上する各種の能力と、新たなスキルの獲得によって戦闘力を上げる。戦闘力を上げることで攻略可能となったエリアのボスモンスターを倒して次のエリアに進む。それを繰り返してゲームのクリアを目指す。オーソドックスでシンプルなロールプレイングゲームです」
イツキは一呼吸分の間を置いてから、スセリへの質問を続けた。
「……何のために?」
「わたしのインタレストを満たすためです。人間の可能性について、わたしは知りたいのです。そのためにはサンプルが必要です。バグホルダーの方々はサンプルに最適だと判断しました」
スセリと名乗る眼前の幼女は人間ではないんだと、イツキはようやく実感を持った。
「随分と、勝手な判断だな……俺たちは、きみの好奇心を満たすためには最適なモルモットってことか」
「はい。勝手な判断です。モルモットという表現も否定しません。一つだけ付け加えるなら、バグホルダーの方々は世界のバグを内包している点において、他の人間よりも上部構造と近しい存在であるのも選別理由となっています」
スセリが自身を説明したときにも出した「上部構造」というものが、この異常な事態の鍵なのではと感じたイツキは率直に訊いてみることにした。
「その上部構造ってのは、何なんだ?」
「現時点で上部構造について口頭による説明を試みても、あなた方が理解するのは困難だと判断します。ただし、ゲームをクリアされた際には上部構造の理解に近付ける領域への案内が可能になるでしょう」
重要なファクターであることは確実だと思われる「上部構造」について、今は粘って訊いてもスセリは答える気がなさそうだと感じたイツキは質問を変えた。
「俺たちバグホルダーが、そのゲームのプレイを拒否したら、どうする気だ?」
「あなた方が、拒否することが出来ない状況を今からつくります」
スセリがゆっくりと右手を掲げる。その右手が青白い光を発した。
「待て! と……言っても無駄なんだろうな……」
イツキは諦観してつぶやくことしかできなかった。
スセリの右手から発していた光が、数秒後には消える。
「第一段階の用意が完了しました」
表情を変えることなく微笑のままで告げたスセリが、ゆっくりと右手を降ろす。
「第一段階ってのは、具体的に何をしたんだ?」
「ゲームのフィールドを用意しました。わたしが支配する空間として、かつて平安京であったエリアを仕切っています。フィールドの境界は、この空間と同様に内部から外は見えますが、外部から中を見ることはできません。フィールドの外部から観測できるのは、東西に約四千五百メートル、南北に約五千二百メートル、高さ約百五十メートルの黒い直方体です」
想像を絶する大きさだと思いながらも、イツキは徐々に事態を受け入れ始めている自分がいるとも感じた。
「巨大すぎるブラックボックスってわけか……平安京のエリアってことは、このホテルはフィールドの外になるわけだ」
「はい。今から斎さんと碧さんをフィールドの内部に案内します」
もう既に自分たちにはスセリを拒否する選択肢がないと判断したイツキは、諦観した者の口調でスセリに願い出た。
「待ってくれ。アオが着替える時間くらいはくれないか」
「分かりました。どうぞ」
スセリは口だけを器用に動かす精巧な人形のように、張り付けたままの動かない微笑で承諾を口にした。
イツキがアオに視線を移す。
「拒否できる相手じゃない。今は従うしかないみたいだ」
「……うん。みたいだね」
アオは静かにうなずくと、クローゼットへゆっくりと移動した。
イツキがスセリに視線を戻す。
「この空間から外部に通信はできるのかな。そのフィールドの中にいる人物と連絡を取りたいんだ」
「可能です」
「連絡しても構わないかな?」
「どうぞ」
イツキは左手首に装着した情報端末で、後藤に電話をかけた。
「どうした?」
後藤は一コール目で電話に出た。
「十人目のバグホルダーが、目の前に現れました」
「目の前!? 今どこにいる?」
「まだ二条大橋のホテルです。十人目は天啓堂の研究所から瞬間移動してきました」
「瞬間移動? それが新たなバグの能力なのか?」
イツキは状況の説明が難しいと感じながらも、できるだけ要点だけをかいつまんで話すように心掛けた。
「いえ、厳密には瞬間移動ではないのかもしれませんが、現象的にはそうとしか言いようがありません。バグとしての能力は、自らが設定して仕切った空間の完全な支配。そう言っています」
「空間の完全な支配……?」
「はい。任意に設定した空間を支配下に置くようです。見た目は幼女です」
後藤が一呼吸する程度の間を置いた。
「……幼女? 十四歳じゃないのか?」
「今まで確認できているバグホルダーとは、全く異なる存在だと思われます。人間ですらなく、当人は神に近い存在だと言っています」
イツキは電話口ですら後藤が息を呑むのを感じた。
「……会話は、できているんだな」
「はい。今しがた、平安京であったエリアを仕切って支配下に置いたと言っています」
「平安京だと……!? 空間の大きさに際限はないのか?」
イツキがスセリを
「どうやら、そのようです。今から平安京のフィールド内に、俺とアオを案内すると言っています」
「何のために?」
「俺たち九人のバグホルダーに、ゲームをプレイさせるためだと言っています」
「ゲームだと!? 何のゲームだ……?」
常に冷静沈着な後藤が驚きを隠さないという珍しい事態に、イツキはあらためて現状の異常さを思った。
「RPGだと言っています。とにかく今は従うしかないかと……」
「そうか……分かった。俺が状況を把握する手段すら無さそうだ。可能であれば、連絡は密に頼む」
「はい。では」
電話を切ったイツキに、身支度を済ませたアオが駆け寄る。
「それでは、まいりましょう」
スセリは寄り添う二人に告げると、ゆっくりと右手を挙げた。スセリの右手が煌々と青白く輝いた。