それは、幼女の姿をしていた――
その異変は京都という千年を越える年月を
京都という地名を聞いて観光客が思い浮かべる歴史的な街並みとは趣の異なる、近代的で無機質なコンクリートと鉄から成る建造物が建ち並ぶ、京都市南区のアーティフィシャル・インテリジェンスいわゆる人工知能の研究開発に特化した再開発エリア。
他国に後れを取った
全く同じデザインで大きさも同一に設計された天啓堂新本社ビルと研究開発棟はシンメトリーに並び立ち、古都の深い闇夜の中にその白亜の威容を誇っていた。
研究開発棟内の中央研究所にはスサノヲと命名されたスーパーコンピュータが設置されていた。研究所の中核を担うスサノヲは、スセリビメと名付けられた人工知能の
絶えず膨大な演算を処理するスーパーコンピュータ・スサノヲのメイン操作ルームを囲むように、それは現れた。
何の前触れもなく、人間の前に出現したのは……漆黒の壁。
研究開発棟内の防災センターに常駐している警備員たちは、その異変に気付かなかった。
最新鋭の防犯パッシブ、防災感知などの各種センサーは突如として出現した漆黒の壁という異変には全く反応せず、スーパーコンピュータ・スサノヲの作動に関する問題も何ら発生していなかった。
電力の供給は当然のように正常で、スーパーコンピュータには必須の空調も問題なく作動しており、常に一定の温度と湿度で管理される室内環境に変化は見られない。
警報の類いは一切無く、防災センターはいつもの平穏な夜の静けさのなかにあった。
仮眠室で仮眠する警備員のいびきだけが微かに漏れ聞こえる防災センターの壁に掛けられた、今では飾りとしての役割しかない時計が午前零時を指した直後に、人類は初めての事態に遭遇した。
研究開発棟内を巡回していた一人の平凡な初老の警備員が遭遇したのは、漆黒の壁だった。
何もなかったはずのスーパーコンピュータ・スサノヲのメイン操作ルームへと続く通路に、漆黒の壁としか形容しようのないものが存在した。
「な……なんや、これ……壁? 壁、なんか?」
初老の警備員は幼稚な好奇心を抑えることもなく手を伸ばし、漆黒の壁に触れた。
そこには物言わぬ壁が確かに存在していた。
触れてはいけないものに触れてしまったという恐怖に今さらかられた警備員は、慌てて壁から手を離すと呼吸を整える余裕もなく、胸の位置にある無線の発信ボタンを押した。
「こっ、こちら……巡回中の、高須。防災センター、ど、どうぞ」
防災センターの中央に位置するメイン操作パネルの席に、深く腰掛けていた当直の班長が高須からの無線を受ける。
メイン操作パネルの左上に固定表示されている日付は、西暦二〇三一年三月二十三日。
「こちら、防災センター。どうぞ」
いつものように、どこか間延びした声で班長は返答した。
高須は戸惑いながらも、現状をありのまま無線で報告した。
「操作ルーム前の通路に、黒い、壁……のようなものが、あります……どうぞ」
「は? 壁? 何を言ってんのや? どうぞ」
班長はいぶかった声で応じた。若干の間を置いて高須が繰り返す。
「確かに、通路に黒い壁が、ありよるんです……どうぞ」
班長は眉を寄せてから、肥えた太い首をゆっくりと傾げた。
「……なんや状況がつかめへんな。しゃあない。今から、そちらに向かう。どうぞ」
「了解……待機します」
プツリと無線が切れる。
班長の隣の席に座り、あくびを噛み殺しながらカメラモニターを見ていた若い警備員が、異変に気付いてモニターを指差した。
「班長、これって……」
カメラモニターは数十台の防犯カメラが捉えた映像を一括表示していた。その内の数台の防犯カメラが捉える映像は、黒く塗り潰さるように漆黒の壁を映していた。
「高須さんが言うとった、黒い壁って、これのことじゃ……」
若い警備員が指を指したカメラモニターに、班長が脂ぎった顔を寄せる。
「なんやあ……これ……って、おいっ! これっ!」
カメラモニターを凝視した班長が声を荒げた。
給湯スペースでインスタントコーヒーの粉末に熱湯を注いでいた副長が班長の声に驚き、モニターを睨む二人に駆け寄った。
「どないしたんです。そないな大きい声、唐突に出さはって」
副長もモニターを覗き込んだ。
班長がメイン操作ルーム内に設置されたカメラの映像をクローズアップしながら声を震わせた。
「これ……これやっ……!」
そこには、幼女が映っていた。
幼女はじっと静かに佇んでいる。
陶磁器のように白い肌をした幼女は白無垢を纏っていた。腰まで伸びた髪は白無垢と対照の妙を示すように黒い。
監視カメラとしてはオーバースペックな高性能カメラが、初めてその性能を発揮して幼女の顔を更にクローズアップする。
切り揃えられた前髪の下には、長いまつげに縁取られたブラックオニキスのような光沢を帯びた瞳。小さく薄い唇には真っ赤な紅をさしている。
モニターに釘付けとなる三人。すっかり青ざめた副長が口もとに手をやって声を漏らした。
「……勘弁したってや……幽霊とかダメなんや、俺」
副長の情けない声を打ち消すように、班長が声を張り上げた。
「冗談ゆうとる場合かっ! パッシブの発報は一切なかった……こりゃあ侵入者やないぞ。とにかく、俺は高須んとこに行ってくる。田辺はモニターをよく見といてくれ。清水は当該カメラの映像を巻き戻して、これが、いつ現れたんか確認や!」
清水と呼ばれた副長が「りょ、了解です」と返答し、防犯カメラの映像を別のモニターで巻き戻す作業に取り掛かった。
考えて躊躇する前に動くしかないと即断した班長は、護身用の警棒を握りながら防災センターを飛び出した。
高須が待機する現場に到着した班長は、現場で漆黒の壁を目の当たりにして言葉を失った。
暫し高須と無言で見つめ合った班長は意を決し、そっと漆黒の壁に触れた。
班長は意識せず独り言のように呟いた。
「なんや、これ……ほんまに壁やないか……」
自身が呟いた声で、目の前に確かに存在する漆黒の壁が声を跳ね返す様子がないという奇妙な感覚に班長は気づいた。
「いや、待て……ほんまに、壁なんか……? これ……?」
防災センターでは田辺がカメラモニターを注視していた。
高性能カメラが限界までクローズアップした幼女の表情は変わらない。じっと呼吸すら感じさせずに動かない幼女を見つめる田辺は「そのままじっとしといてくれ」と胸の内で願った。
そんな田辺の願いを嘲笑うように、幼女が急に顔を上げてカメラを真正面に直視した。
カメラとモニターを介して、田辺と幼女の視線が合う。
田辺は目を離せなかった。声が出なかった。蛇に睨まれた蛙のようにピクリとも身体を動かせなかった。
幼女が微かに口角を上げる。それは微笑みと表現するにはぎこちなく冷たいが、確かに幼女は微笑と見て取れる表情をつくっていた。
「いっ……生き、てる……」
田辺がか細い声を絞り出したのと同時に、幼女が消えた。
スーパーコンピュータ・スサノヲをすっぽりと囲む漆黒の壁を残して、幼女は忽然と姿を消した。