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第5話

 朝早くに目を覚ました諒子は、いつもより時間をかけて、丁寧にメイクをした。仕上げに新作のリップを塗って、お気に入りのライトブルーのワンピースに着替える。


 諒子が寝室の扉を開けると夫も起きていた。横を向いて寝転がり、携帯電話の画面を眺めている。


「今日も家にいるの?」


 諒子が言うと、夫はゆっくりと身体を起こした。


「こんなんじゃ、どこにも行けないだろ……。手も脚も動かないんだぞ……? それに、体調も悪いし——」


「ふうん、私はパートに行く時間だから。じゃあね」


「え。おい、ちょっと待てよ! 俺の飯はどうなるんだよ! 病院にも行きたいのに!」


 ——知らないわよ、自分でどうにかすれば?


 諒子は聞こえないふりをしてドアを閉めた。夫はまだ寝室の中で叫んでいる。


 ——私が、体調が悪い時に何かをしてくれたことはないくせに、自分がつらい時は助けてもらえると思っているなんて。


「なんでこんな奴と結婚したんだろう」


 口に出すと、胸の中にある黒い靄が、すぅっと消えていくような感じがした。







 家の近くにある喫茶店に入った諒子は、周りに聞こえないくらいの小さな声で、まじないの言葉を唱える。


 パートに行く、と夫に言ったのは嘘だ。ネックレスについている漆黒のガラス玉には、すでにヒビが入っている。もう少しで石が割れるはずだ、と諒子は考えていた。


 テーブルに両肘をつき、顔の前で手を組む。そして、今まで夫に対して感じてきた不満を1つずつ思い浮かべながら、まじないの言葉を唱えた。


 いつしか名前ではなく「おい」と呼ばれるようになったこと。当たり前のように家事を全部押し付けられたこと。子供の面倒を見ようとしなかったこと。そのせいで忙しくなり、自分の身なりに気を使う余裕がなかったのに、女を捨てていると言われたこと。「ありがとう」と言われなくなったこと。体調が悪くて寝ていたら、嫌な顔をされたこと。不倫相手と仲良く話をしている姿が脳裏に浮かんだ。


 顔の前で組んだ手に段々と力が入り、爪が指に食い込む。


 ——お願いします、弥咲姫さま。愚かな夫に制裁を。


 次の瞬間、胸元で、パン! と弾ける音がして、黒い粒が机の上にパラパラと落ちた。


「あ、割れた……」


 ネックレスを外してみると、ガラス玉が無くなっている。


「……ありがとうございます。ありがとうございます、弥咲姫さま……!!」


 諒子は目を瞑り、両手でネックレスを、ぎゅっと握りしめた。







 喫茶店を出た諒子は映画館へ行き、観終わるとセレクトショップに入った。服やアクセサリーを一通り見た後は、新作のバッグを眺める。機嫌良さげに店内を歩く諒子に、店員は次々と商品を勧めてきた。


 ——前の私は疲れ切った顔をして、いつ買ったか覚えていないような、くたびれた服を着ていたのよね。あの頃の私がここへ来ても、こんなふうに声をかけられることはなかったんだろうな……。


 そんなことを考えながらバッグを選んでいると、携帯電話が鳴った。知らない番号だ。


「はい」諒子が電話に出ると、相手は警察だと名乗った。


 諒子が家を出た後、夫は隣にある建設中のビルの前で、タクシーを待っていたらしい。そこへ上層階から鉄板が落ちてきたのだそうだ。


「遺体の確認をしに来てほしい」と警察は言った。


「ふふ……あははは。事故なら賠償金も入るじゃない。これも全部、弥咲姫さまのおかげだわ。本当に、ありがとうございます」







 数日後——。諒子は菓子折りを持って、会社の事務所へ入る。しばらくの間、休ませてもらうことを、同僚たちに直接伝える為だ。


 夫の死亡保険金や事故の賠償金で暮らしていけるが、ひとりぼっちにならないように、諒子はパートを続けることを選んだ。


「大丈夫? ゆっくり休んでいいんだからね」


「何かあったら連絡してね、いつでも話し相手になるわよ」


 諒子と仲良くしている同僚のイズミとユリコは、涙を拭いながら言う。


「ごめんね。手続きが山ほどあるし、夫の事故の裁判もあるから、しばらくは来れないと思うの」


「いいのよ、気にしないで。諒子さんが抜ける分は、みんなで分担すればいいんだから」


「そうよ。無理はしないでね」


「うん。ありがとう……」諒子は弱々しく答える。「すみません。よろしくお願いします」と事務所の中を見まわしながら頭を下げると、他の同僚たちも口々に「大丈夫だから、無理をしないでね」と、諒子に声をかけた。眉尻を下げ、ハンカチを目の下に当てる者もいる。


 ——夫が死ぬと、こんなに優しくしてもらえるのね。


 諒子は静かに頭を下げ、事務所を後にした。







 諒子が事務所を出た後、イズミとユリコは給湯室でメイクを直し始めた。諒子と話しながら何度も目の下を擦ったので、ファンデーションが落ちてしまったのだ。


「大変ね、諒子さん。これからどうするんだろう」


 イズミは鏡で目元を見ながら言う。


「まぁ保険金が入るだろうから、生活には困らないんじゃない?」


「保険金かぁ。いくら入るんだろうね。……でもさぁ、トラックに積まれていたパネルが落ちてきて脚を骨折したって聞いたのって、3ヶ月くらい前だったと思うのよ。それから割れた窓ガラスで手首が切断されて、最後はビルから鉄板が落ちてきて亡くなるなんて……。ちょっと、異常じゃない?」


「まぁねぇ。何だか呪われたとしか思えないくらい、悲惨よね」


「そうでしょう? もしかして……諒子さんが呪っていたとか。前に旦那さんが不倫しているかも、みたいなことを聞いたじゃない?」


 イズミが言うと、ユリコは目を大きくして、両手で口元を覆った。


「本当に、そうなのかも……。諒子さんがずっと何かを呟いているのは、挨拶状の文面を考えているんじゃないかって話をしたの、覚えてる?」


「あぁ、真面目だねって話したやつね」


「そうそう。この間、年末調整の書類を回収した時に見たんだけど、旦那さんの名前が『燈司とうじ』だったのを思い出したのよ。挨拶状の『冬至とうじのみぎり』じゃなくて、『燈司の身を斬る』の意味だったのかな、と思って」


「まさか。呪いの呪文みたいなものをずっと呟いていたってこと?」


「そうだったら怖いよね。……でも、本当にそんなものがあるなら、教えてほしいかも」


「うん。私もそう思ってた。聞いたら教えてくれるかな」


「どうだろう。ユリコさんは、呪いたい人がいるの?」


「もちろん旦那よ。最近帰りが遅いなと思ったら、パパ活をやってるみたいなの。家のことを全部私に押し付けて自分だけ遊ぶなんて……冗談じゃないわ。呪いなら死んでも罪にはならないでしょう?」


「そうよね。うちも同じようなものよ。やっぱり、諒子さんに聞いてみようか」


 しばしの間、見つめ合ったイズミとユリコは、口元にだけ歪んだ笑みを浮かべた。







 会社を出た諒子は、すぐ近くにある街路樹に寄り掛かる。


「……くふっ……ははは」我慢できずに吹き出した。


 会社の人たちは、諒子が悲しんでいると信じきっていた。女優にでもなったかのようだった、と思うと笑いが止まらない。実際には、夫の遺体を確認しにいった時も、悲しむ気持ちは一切なかったのだ。


 建設中のビルから落ちてきた鉄板は夫の左肩に落ちて、そのまま身体を半分に切り裂いていた。安置室で、警察官は遺体袋を少しだけあけて、夫の右側の顔を見せた後「これ以上は見ない方がいい」と言って、目を伏せた。


 ——笑いそうになるのを我慢するのが、大変だったのよね。


 涙を流すことができなかった諒子は、ハンカチで顔を隠して誤魔化していた。夫を亡くして悲しんでいる妻を演じた方が、諒子にとっては都合がよかったのだ。


 大きく息を吸い込みながら空を仰ぐと、縁切りの呪法について書かれていたことが脳裏によみがえった。


『弥咲姫は手に刀をくくりつけていた。それはあの世で、夫と不倫相手を苦しめるためだったのではないか、と言われている。』と書いてあったのだ。


 諒子は夫の左手が切れて飛んでいくところを見た時に、何となく、切れ方が不自然だと思ったことを思い出した。固定されているガラスで切ったにしては、やけに勢いよく手が飛んで行ったのだ。それに夫が死んだ時も、身体が真っ二つになっていた。


「きっと、弥咲姫さまが刀で罰を与えてくださったのね」


 諒子の指には新しい指輪がはめられている。左手を持ち上げると、漆黒のガラス玉が鈍い光を放った。


「そういえば浮気相手の名前、なんだったっけ? ゆな……だったかな?」


 歩き出した諒子は両手を広げて、舞うようにくるりとまわる。そして、パン、パン、と掌を打ち合わせた。


「やえひめみまえのみたまに こいねがいもうしたまう ゆなのみぎりにて われのたいがんをじょうじゅなさしめたまへと かしこみかしこみもおす」


 指輪についている黒いガラス玉が、ピシッ、と音を立てた——。 





〈了〉

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