夫は2ヶ月ほど入院することになるだろう、と医師は言った。
切断された手は手術で繋ぎ合わせることができたが、動くようになるかどうかは分からない。さらに、元々ヒビが入っていた脛の骨は、倒れ込んだ時に完全に折れてしまったようだ。
退院した後もリハビリに通うことになるが、とりあえず2ヶ月間はまた自由な生活が送ることができる、と諒子は喜んだ。
「あぁ、1人って楽でいいわぁ〜」
諒子は1人きりの朝に幸せを感じていた。休みの日は寝たいだけ寝て、好きなものを食べて、家事も自分の分だけならすぐに終わるので、急ぐ必要はない。
「今日は休みだし、服でも見に行こうかな」
結婚してからは、化粧品はドラッグストアで。服はネットショッピングで。独身の時は2ヶ月毎に行っていた美容院も、半年に1回にしていた。もちろん自分がそうしたかったわけではなく、家族のために節約をしていたからだ。
それなのに夫は、諒子のことを家政婦扱いしたうえに、不倫をしていた。もちろん不倫相手にお金を使っていたのだろう。もう我慢をする必要はないと思った諒子は、独身時代のように、自分のために金や時間を使うことにした。
美容院で教えてもらった通りに髪をセットして、百貨店の化粧品売り場で習ったメイクをする。前は、鏡に映る疲れ切った自分を見るのが嫌だと思っていたけれど、今は楽しい。
会社で同僚たちに「綺麗になったね」「若返ったよ」などと言われたことを思い出すと、頬が緩んだ。
諒子が百貨店の3階にあるブランドショップに入ると、上品な印象の店員が声をかけてきた。
「今日は何をお探しですか?」
「ちょっとワンピースが見たくて」
そう言いながら、諒子は近くにあった黒のワンピースに手をかける。
「黒もいいですけど、こういう色もお似合いになると思いますよ」
店員はライトブルーのワンピースを諒子に見せた。
「うーん……。モデルさんなら似合うかも知れないですけど、私にはちょっと派手じゃないですか?」
諒子が持っている服は、ほとんどが黒やカーキ色だ。子供が生まれてからは、汚れが目立たない服ばかり選ぶようになった。
「いえ、そんなことはないですよ。鏡がありますから、合わせてみてください」
店員に案内されて鏡の前に移動した。
「ほらやっぱり。お似合いですよ」
諒子は鏡の中の自分をじっと見つめる。たしかに、意外と似合っていると思った。今着ている紺色の上着よりも、ライトブルーのワンピースの方が、顔が明るく見える。
「そうね。たまにはこういう色にチャレンジしてみてもいいかも。でも、派手じゃない?」
「派手じゃないですよ。たしかに明るい色は勇気がいると言われる方が多いですけど、お客様が着ると、すごく上品な印象になります。お似合いですよ」
店員はにっこりと微笑んだ。
「本当? じゃあ……買おうかな」
褒められると悪い気はしない。諒子は鏡の中の、いつもと違う自分を見ながら、はにかんだような笑みを浮かべた。
そして2ヶ月後——。夫が家に帰ってきた。
夫は以前にも増して、自分の身のまわりのことを諒子にやらせる。自分は寝室のベッドに寝転がったままで、大きな声で諒子を呼んでは新聞や食事を持って来いと言う。
寝室を出てリビングに戻った諒子は、クッションをソファーに投げつけた。
「何なのよ! せめて、ありがとうくらい言えないの?」
2ヶ月の間、独身時代のような生活を送っていた諒子は、夫の横柄な態度が許せない。夫が帰ってきたその日の内に、もう無理だと思った。
「不倫相手の家にでも行けばよかったのに。……あぁ、さすがに捨てられたのかもね。いつ治るか分からないから、仕事も辞めることになるかもしれないし。でも、私ももういらないんだけど」
ソファーに座ってドラマを見始めても、イライラした気持ちが抑えられない。自分が貧乏ゆすりをする、その振動にさえ腹が立つ。
「……やえひめみまえの……」
諒子は、1人の生活を楽しんでいた間は唱えなかったまじないの言葉を、また口ずさんだ。