入院している夫の着替えを持って、諒子は病院へ向かう。
「はぁ……めんどくさい。洗濯室へ行って、自分で洗えばいいのに」
何度もため息をつきながら病室の前に着くと——女性の笑い声が聞こえた。
——若い女性の声に聞こえる。もしかして、不倫相手が病院にまで来ているの……?
諒子は病室へ入り、勢いよくカーテンを開ける。以前の自分ならこんなことはしなかっただろうと、自分の行動に少し驚いていた。
「うわっ! なんだよ、びっくりするじゃないか」
夫も見知らぬ若い女性も、顔を引き
「普通にカーテンを開けただけでしょ。どうして驚くの? 何か、都合が悪いことでもあった?」
諒子は笑顔を作って、首を傾げる。
「いや、そうじゃないけど……」
平静を装っているが、夫のこめかみには汗が滲んでいる。相当焦っているのだろう。吹き出しそうになるのを諒子は必死に抑えた。
「それで、こちらの方はどなた?」
諒子は女性を見る。
「同僚だよ。心配して見舞いに来てくれたんだ」
「木嶋ゆなと申します」
——やっぱりこの女が『ゆな』なのね。
笑顔を崩さずに諒子は「お世話になっております」と言う。一瞬だけ、ここで2人の関係を問い詰めてやろうか、という思いが過ったが、ヒビが入った指輪が目に入ると、そんな思いは消えていった。
——こんなに冷静でいられるのは、弥咲姫さまのおかげね。ここには他の患者さんたちもいるから騒ぐのはよくないし、私には弥咲姫さまがついているんだもの。無駄な体力を使う必要はない。
しばらくすると、ゆなは何ともないような顔をして夫と話し始めたが、夫は顔を引き攣らせたままだ。そして額全体に汗をかいている。
——焦るくらいなら、こんな所にまで呼ばなかったらいいのに。バカみたい。
当たり障りのない世間話をしている夫とゆなを、諒子は冷めた目で見下ろした。歳が離れている2人は、どう見ても親子にしか見えない。それに夫は、どこにでもいる普通のおじさんだ。なぜ若い女性が、わざわざ50代の夫と不倫をしようと思ったのか。考えてみても、諒子には分からなかった。
持ってきた夫の服やタオルを棚に入れている間も、2人は諒子に話を振ろうとはしない。それどころか、諒子の方を見ようともしなかった。
——ふうん、2人とも反省はしていないようね。それなら私も、自分のことだけを考えよう。
使用済みの服が入ったビニール袋を掴んだ諒子は、病室を出た。
建設会社の事務所で入力作業をしている間も、周りに人がいなくなる度に、諒子はまじないの言葉を呟く。病院で夫と不倫相手が一緒にいるところを見てから、早く縁を切りたいと思う気持ちが強くなっていた。
それに、呪物にヒビが入ったことで夫が怪我をしたのなら、割れた時はどうなるのか。説明書には書いていなかった『願いが叶う時』がどういったものなのかが気になる。
今までよりも強く願いを込めて、諒子はまじないの言葉を唱えた。
同僚のイズミとユリコは、長机で伝票の整理をしながら諒子を見つめる。
「諒子さんて、最近ずっと何かを呟いてるよね。イズミさんは席が近いから、何を言ってるか聞こえるんじゃない?」
「そうね。
「あぁ、そういえばそろそろ準備をしないといけない時期かぁ。今時、挨拶状なんて。とは思うけど、仕事だから仕方ないわよね」
「諒子さんが考えてくれているなら、今年はそれを使わせてもらいましょうよ。毎年、同じ文面を使い回しもどうかと思うし」
「そうね」
諒子が熱心にまじないの言葉を唱えるようになったのには、もう一つ理由がある。怪我をしてから一週間が経ち、入院していた夫が家に帰ってきたのだ。
諒子がパートを終えて家へ戻ると、夫はソファーに寝転がり、携帯電話をいじっている。
——どうせ、家のことは何もやってないんでしょうね。
そう思いながらベランダを覗くと、予想通り、洗濯物は干しっぱなしだ。
諒子はソファーの前にあるローテーブルに目をやった。するとテーブルの上には、コンビニのビニール袋が置いてある。
——足が痛いから、ってお茶や新聞を取らせるくせに、コンビニへ行くことはできるのね。
ため息をつきながら、諒子は洗濯物を取り込む。
「おい、飯は準備してあるのか?」背後で夫の声がした。
「……今帰って来たんだから、すぐには出来ないわよ」
「昼飯が少なかったから、腹が減ってるんだよ。洗濯物を畳むのは後で出来るんだから、先に飯にしてくれ」
——本当に、面倒くさい……。
あなたが何もしないでゴロゴロしている間、私は働いていたんだと言いたいが、言うと揉めるので、諒子はぐっと我慢した。何よりもう夫と会話をしたくない。
諒子が夕飯を作っている間も、夫はソファーに寝転がったままだ。夫はお笑い番組を見ながら、時折笑い声をあげる。
——ソファーに座っていても、洗濯物くらい畳めるでしょ。
夫の笑い声が聞こえる度に、包丁を持つ諒子の手に力が入っていった。キャベツが切れるのと同時に、木のまな板の表面にキズが増えていく。
「やえひめ……こいねがい…………たいがんを……たまへと……かしこみかしこみ……」
諒子は無意識に呟いていた。どんなにイライラしていても、まじないの言葉を唱えている間は心が落ち着く。
「……じょうじゅ…………たまへと……かしこみもおす……」
突然耳元で、パン! と音がして、まな板の上に黒い破片が散らばった。
「え……?」
両耳のイヤリングを外してみると、片方のガラス玉にはヒビが入り、もう片方のガラス玉は無くなっている。
「すごい。本当に、割れた……」
イヤリングを持つ諒子の手が震えた。
「すごい。すごい……! これできっと、願いが叶う……!」
両手を合わせてイヤリングを握りしめた時——ガシャーン! とガラスが割れる大きな音が部屋の中に響いた。
「わっ、何?」
諒子が振り向くと、ソファーの横にある掃き出し窓が割れていた。上部のガラスは完全に無くなり、下半分にはガラスが残っている。尖ったガラスの先端は部屋の灯りを反射して、ギラリと輝いた。
「びっくりしたぁ……。なんで急に割れたんだ?」
夫はソファーから立ち上がり、窓へ近付いて行く。床には割れたガラスが散乱していて、夫が足を進める度に、チャリ、カチャ、と音がした。
「おい、
ガラスで足を滑らせた夫が窓の方に勢いよく倒れ込む。その姿が、諒子にはスローモーションのように見えた。
夫の身体が一瞬、宙に浮いた。
前に突き出した右手が刃物のように尖った窓ガラスに刺さり、腕と同じ色をしたものが窓の向こう側へ飛んで行く。
あまりにも勢いよく飛んだので、諒子の目はそちらを追った。
「何」と思う間もなく、今度は夫の絶叫が響き渡る。その声に、ハッとして、ようやく飛んで行ったのが夫の手だと理解した。
尖ったガラスが赤く濡れて、鈍い光を放っている。
ライトグリーンのソファーに点々とついた赤い染みは、夫の血が飛び散ったものだ。
諒子はおそおそる、倒れ込んで呻き声を上げている夫に近付いた。夫は右の手首を握りしめている。その先には赤ワインを溢したような血溜まりがあり、少しずつ広がっていた。
じわじわと広がる赤は、ライトグレーのカーペットも少しずつ赤へ変えていく。その様子を、諒子は茫然と見下ろしていた。
「うぅ……う……」夫は唸るだけで、話すこともできないようだ。苦痛に歪んだ顔からは、じっとりと油汗が滲み出ている。
——人間って、どのくらい血を失ったら死ぬんだろう……。
このまま救急車を呼ばなければ——諒子はしばらくの間、痛みに悶え苦しんでいる夫を見つめていた。ただ、マンションの防犯カメラを確認されると、自分が家にいたことはすぐにバレてしまう。このまま放置すると、なぜ救急車を呼ばなかったのか、と言われてしまうだろう。
諒子は、夫が苦しむ姿を見られたのだからこれでいい、と思い直して、救急車を呼んだ——。