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第3話

 入院している夫の着替えを持って、諒子は病院へ向かう。


「はぁ……めんどくさい。洗濯室へ行って、自分で洗えばいいのに」


 何度もため息をつきながら病室の前に着くと——女性の笑い声が聞こえた。


 ——若い女性の声に聞こえる。もしかして、不倫相手が病院にまで来ているの……?


 諒子は病室へ入り、勢いよくカーテンを開ける。以前の自分ならこんなことはしなかっただろうと、自分の行動に少し驚いていた。


「うわっ! なんだよ、びっくりするじゃないか」


 夫も見知らぬ若い女性も、顔を引きらせて諒子を見上げている。


「普通にカーテンを開けただけでしょ。どうして驚くの? 何か、都合が悪いことでもあった?」


 諒子は笑顔を作って、首を傾げる。


「いや、そうじゃないけど……」


 平静を装っているが、夫のこめかみには汗が滲んでいる。相当焦っているのだろう。吹き出しそうになるのを諒子は必死に抑えた。


「それで、こちらの方はどなた?」


 諒子は女性を見る。


「同僚だよ。心配して見舞いに来てくれたんだ」


「木嶋ゆなと申します」


 ——やっぱりこの女が『ゆな』なのね。


 笑顔を崩さずに諒子は「お世話になっております」と言う。一瞬だけ、ここで2人の関係を問い詰めてやろうか、という思いが過ったが、ヒビが入った指輪が目に入ると、そんな思いは消えていった。


 ——こんなに冷静でいられるのは、弥咲姫さまのおかげね。ここには他の患者さんたちもいるから騒ぐのはよくないし、私には弥咲姫さまがついているんだもの。無駄な体力を使う必要はない。


 しばらくすると、ゆなは何ともないような顔をして夫と話し始めたが、夫は顔を引き攣らせたままだ。そして額全体に汗をかいている。


 ——焦るくらいなら、こんな所にまで呼ばなかったらいいのに。バカみたい。


 当たり障りのない世間話をしている夫とゆなを、諒子は冷めた目で見下ろした。歳が離れている2人は、どう見ても親子にしか見えない。それに夫は、どこにでもいる普通のおじさんだ。なぜ若い女性が、わざわざ50代の夫と不倫をしようと思ったのか。考えてみても、諒子には分からなかった。


 持ってきた夫の服やタオルを棚に入れている間も、2人は諒子に話を振ろうとはしない。それどころか、諒子の方を見ようともしなかった。


 ——ふうん、2人とも反省はしていないようね。それなら私も、自分のことだけを考えよう。


 使用済みの服が入ったビニール袋を掴んだ諒子は、病室を出た。







 建設会社の事務所で入力作業をしている間も、周りに人がいなくなる度に、諒子はまじないの言葉を呟く。病院で夫と不倫相手が一緒にいるところを見てから、早く縁を切りたいと思う気持ちが強くなっていた。


 それに、呪物にヒビが入ったことで夫が怪我をしたのなら、割れた時はどうなるのか。説明書には書いていなかった『願いが叶う時』がどういったものなのかが気になる。

 今までよりも強く願いを込めて、諒子はまじないの言葉を唱えた。







 同僚のイズミとユリコは、長机で伝票の整理をしながら諒子を見つめる。


「諒子さんて、最近ずっと何かを呟いてるよね。イズミさんは席が近いから、何を言ってるか聞こえるんじゃない?」


「そうね。冬至とうじがどうとか聞こえたから、挨拶状の文面でも考えてるのかなと思っていたんだけど」


「あぁ、そういえばそろそろ準備をしないといけない時期かぁ。今時、挨拶状なんて。とは思うけど、仕事だから仕方ないわよね」


「諒子さんが考えてくれているなら、今年はそれを使わせてもらいましょうよ。毎年、同じ文面を使い回しもどうかと思うし」


「そうね」


 諒子が熱心にまじないの言葉を唱えるようになったのには、もう一つ理由がある。怪我をしてから一週間が経ち、入院していた夫が家に帰ってきたのだ。







 諒子がパートを終えて家へ戻ると、夫はソファーに寝転がり、携帯電話をいじっている。


 ——どうせ、家のことは何もやってないんでしょうね。


 そう思いながらベランダを覗くと、予想通り、洗濯物は干しっぱなしだ。


 諒子はソファーの前にあるローテーブルに目をやった。するとテーブルの上には、コンビニのビニール袋が置いてある。


 ——足が痛いから、ってお茶や新聞を取らせるくせに、コンビニへ行くことはできるのね。


 ため息をつきながら、諒子は洗濯物を取り込む。


「おい、飯は準備してあるのか?」背後で夫の声がした。


「……今帰って来たんだから、すぐには出来ないわよ」


「昼飯が少なかったから、腹が減ってるんだよ。洗濯物を畳むのは後で出来るんだから、先に飯にしてくれ」


 ——本当に、面倒くさい……。


 あなたが何もしないでゴロゴロしている間、私は働いていたんだと言いたいが、言うと揉めるので、諒子はぐっと我慢した。何よりもう夫と会話をしたくない。


 諒子が夕飯を作っている間も、夫はソファーに寝転がったままだ。夫はお笑い番組を見ながら、時折笑い声をあげる。


 ——ソファーに座っていても、洗濯物くらい畳めるでしょ。


 夫の笑い声が聞こえる度に、包丁を持つ諒子の手に力が入っていった。キャベツが切れるのと同時に、木のまな板の表面にキズが増えていく。


「やえひめ……こいねがい…………たいがんを……たまへと……かしこみかしこみ……」


 諒子は無意識に呟いていた。どんなにイライラしていても、まじないの言葉を唱えている間は心が落ち着く。


「……じょうじゅ…………たまへと……かしこみもおす……」


 突然耳元で、パン! と音がして、まな板の上に黒い破片が散らばった。


「え……?」


 両耳のイヤリングを外してみると、片方のガラス玉にはヒビが入り、もう片方のガラス玉は無くなっている。


「すごい。本当に、割れた……」


 イヤリングを持つ諒子の手が震えた。


「すごい。すごい……! これできっと、願いが叶う……!」


 両手を合わせてイヤリングを握りしめた時——ガシャーン! とガラスが割れる大きな音が部屋の中に響いた。


「わっ、何?」


 諒子が振り向くと、ソファーの横にある掃き出し窓が割れていた。上部のガラスは完全に無くなり、下半分にはガラスが残っている。尖ったガラスの先端は部屋の灯りを反射して、ギラリと輝いた。


「びっくりしたぁ……。なんで急に割れたんだ?」


 夫はソファーから立ち上がり、窓へ近付いて行く。床には割れたガラスが散乱していて、夫が足を進める度に、チャリ、カチャ、と音がした。


「おい、ほうきか何か——うわっ!」


 ガラスで足を滑らせた夫が窓の方に勢いよく倒れ込む。その姿が、諒子にはスローモーションのように見えた。


 夫の身体が一瞬、宙に浮いた。


 前に突き出した右手が刃物のように尖った窓ガラスに刺さり、腕と同じ色をしたものが窓の向こう側へ飛んで行く。


 あまりにも勢いよく飛んだので、諒子の目はそちらを追った。


 「何」と思う間もなく、今度は夫の絶叫が響き渡る。その声に、ハッとして、ようやく飛んで行ったのが夫の手だと理解した。


 尖ったガラスが赤く濡れて、鈍い光を放っている。


 ライトグリーンのソファーに点々とついた赤い染みは、夫の血が飛び散ったものだ。


 諒子はおそおそる、倒れ込んで呻き声を上げている夫に近付いた。夫は右の手首を握りしめている。その先には赤ワインを溢したような血溜まりがあり、少しずつ広がっていた。


 じわじわと広がる赤は、ライトグレーのカーペットも少しずつ赤へ変えていく。その様子を、諒子は茫然と見下ろしていた。


「うぅ……う……」夫は唸るだけで、話すこともできないようだ。苦痛に歪んだ顔からは、じっとりと油汗が滲み出ている。


 ——人間って、どのくらい血を失ったら死ぬんだろう……。


 このまま救急車を呼ばなければ——諒子はしばらくの間、痛みに悶え苦しんでいる夫を見つめていた。ただ、マンションの防犯カメラを確認されると、自分が家にいたことはすぐにバレてしまう。このまま放置すると、なぜ救急車を呼ばなかったのか、と言われてしまうだろう。


 諒子は、夫が苦しむ姿を見られたのだからこれでいい、と思い直して、救急車を呼んだ——。



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