今ではもうすっかり聞きなれたアラームの音が遠くで鳴っている。燿のスマートフォンのものだ。蒼波は小さな子供がいやいやをするように頭を振って布団に潜り込もうとした。すると、抱えていた温もりが腕から抜け出してしまう。
「蒼波、起きろ」
「んー」
「蒼波!」
燿は蒼波がくるまっている布団ごと容赦なくたたいてきた。昨日遅くまで起きていたのだから、土曜日くらいゆっくりと寝かせてほしい。夜更かしした上、蒼波よりも体に負担のかかる行為をしていたとは思えない燿の寝起きのよさに半ば呆れながら、蒼波は開いていない目をごしごしとこすった。
「いま、なんじ?」
「五時」
「……おやふみ」
「おい! 海行くっつったのお前だろ!?」
そのひと言に蒼波はがばりと半身を起こす。燿がぷっと噴き出したのが聞こえたので、今朝も自分のクセのある髪の毛は跳ねているのだろうと頭に手を持っていった。
「燿ちゃん、俺の寝ぐせ、直りそう?」
「その前に目を開けろ」
笑いながら蒼波の髪の毛を柔らかくすいてくれる燿の手は、いつもと変わらず優しい。蒼波はうなりながらなんとかまぶたを持ち上げた。蒼波の紅茶色の瞳に笑顔の燿が映る。
「早く顔洗ってメシにしよーぜ」
「うん」
二人は蒼波の部屋を出て洗面所に向かった。ひじでお互いをつつき合いながら顔を洗い、蒼波の茶色くふわふわとした柔らかい髪についた寝ぐせを大騒ぎして直す。そうしてあらかじめ室橋の家から持ってきていたサンドイッチを食べにダイニングルームへと急いだ。
「燿ちゃん、コーヒーの方がいい?」
「お前と一緒で」
「じゃあ紅茶でもいい?」
「ん」
冷蔵庫から取り出したサンドイッチをテーブルに並べる燿を振り返りながら、蒼波は新婚家庭のようだなと思う。付き合いそのものは長いものの、恋人としてのそれは最近始まったばかりだから、新婚みたいなものなのかもしれない。口に出すと燿に怒られてしまうので、言ったことはないのだけれど。
「いただきまーす」
「いただきます」
今日は以前蒼波が行きたいと言った海に二人で出かける予定となっている。日帰りで海まで行くにはここからは距離が少しあった。目的のシーグラス探しの時間を考慮し、一泊二日の小旅行にしようと言い出したのは燿だ。中間試験の終わりを待ち、かつ期末試験までに余裕のある日程を選んでいたら十月もあっという間に末になっていた。
食事を済ませて着替えると、既に用意しておいた荷物を手に家を出る。丁度日の出を迎えたのか朝焼けが美しく、蒼波は思わず声を上げた。
「きれい。見て、燿ちゃん」
「お前、もう一枚羽織らなくて大丈夫か?」
「大丈夫。それより空、見てよ」
「ああ、朝焼けか」
燿は毎朝のようにランニングをするので、朝焼けを見るのは珍しいことではないのだろう。デニムパンツに長袖のTシャツ、パーカーを着ただけの蒼波の服装を心配していた。それでも今日一緒に朝焼けを見たことが嬉しくて、蒼波は空を指差す。駅までの道を歩きながら、高い山の上では空は濃い色をしているのだとか、朝焼けと夕焼けのどちらが好きかとか、二人は空について話をした。
やがて駅に着いた燿と蒼波は、通学のときとは逆の方面へ向かう電車へと乗り込む。土曜の早朝ということもあって、電車にはほとんど人は乗っておらず、ゆったりと座ることができた。
燿はバックパックを網棚にのせると、蒼波の持っていたボストンバッグを受け取ろうと手を伸ばしてくる。
「いいよいいよ。燿ちゃん、小さいんだし」
「お前がでかいんだよ」
脇腹をぽすんと殴られた蒼波は、あははとごまかすように笑った。燿は身長の話になるとすぐ怒り出す。それが蒼波には不思議だった。百八十を少し超えた身長の自分より十センチほど背の低い燿は、とてもかわいらしいのにどうしてこんなに嫌がるのだろうか。前に一度尋ねたときには「お前には一生解らねぇ!」と怒鳴られてしまった。
「小さいの、かわいいのに」
「だから、俺は別に、小さいわけじゃ、ねーし」
ぽつぽつと区切りながら言葉を返す燿の、短めの黒髪から覗く耳が真っ赤になっている。きっとかわいいと言ったので照れているに違いない。両想いになってからというもの、燿はこうしてよく赤くなる。
蒼波にとっては長い長い間抱えてきた初恋が叶ったのだから、壊さないように大切に宝箱にしまっておきたい気持ちがある。今の燿の照れた様子も、昨夜の乱れた姿も、すべて大事に取っておきたい。そう思うと蒼波まで赤面してしまいそうだった。
「こっちの方に来るの久々だな」
二人の間に流れる淡い色をまとった雰囲気を断ち切るように、燿が窓に目を向けて呟く。蒼波はこくりとうなずいた。
「途中で乗り換えるんだよね?」
「だな。寝るなよ。起こすの大変なんだから」
「寝ないよ。もったいない」
二人は乗り換えのターミナル駅に到着するまで、地図アプリを起動させて目指す海までのルートを再確認したり、海辺をどう巡るかをチェックしたりする。乗り換えは予定通りに行えた。乗り換えた電車一本で海岸付近まで行くことができるので、あとは目的の駅まで乗っていればよい。同じく海に行くと思われる人々を見かけるようになってきた。
タタン、タタンと音を立てて走る電車の、小さな振動が心地よかったのだろう。蒼波の肩に燿の頭がこてんと寄せられた。
「燿ちゃん? もう、寝たらダメって自分で言ってたのに」
言葉とはうらはらに、蒼波は燿を自分にもたれかけさせたままにする。昨夜「明日は出かけるからいやだ」と言っていた燿を押し切る形で抱いてしまったので、疲れさせている自覚はあった。自分がしっかり起きてさえいればよい話だ。蒼波はいつ燿が起きても気づけるように、イヤフォンを片耳だけにはめて、スマートフォンでお気に入りの動画を見ることにした。短い動画を二、三本見たところで、燿が「んん」とむずがるような声を出す。
「起きた?」
「あれ? 寝ちまってたか。悪い」
「まだ寝ててもいいよ。燿ちゃん疲れてるでしょ?」
動画を一時停止させてそう声をかけると、なにを思い出したのか燿の顔がぼんっと赤く染まった。
「だから! 俺はいやだって……!」
「燿ちゃん、声大きいよ」
人はまばらとは言えいないわけではないので、蒼波は口の前に人差し指を立てて「しーっ」っと合図を送る。燿がぐっと言葉に詰まっている姿すらかわいいと思うのだから我ながら重症だ。
燿はよくも悪くも言葉がまっすぐだけれど、それが出てこなくなると代わりに手が出る。本気で殴られたことはないものの、やはり今回もぽかすかと二の腕をたたかれた。
そうこうしている内に、海が近くなってきたようだ。車窓からも海が見えるようになってきたので、燿も蒼波も感嘆の声を漏らす。海を見たのは本当に久しぶりのことだった。
「蒼波、シーグラス見つかるといいな」
「あのね。俺、青いのがほしいんだ」
シーグラスは瓶などの欠片でできているため、色も形も様々だ。蒼波は晴天の中を全力で走る燿のような青いシーグラスがほしかった。エメラルドグリーンや白のシーグラスも美しいとは思うけれど、蒼波の中での燿のイメージは青や水色といった空の色がどうしても強い。
そう思って希望を伝えると、燿は驚いたような表情を浮かべた。
「どうしたの?」
「いや、なんでもねぇ」
「でも」
「あ、ほら。次、降りる駅だぞ」
燿が立ち上がって網棚のバックパックに手をかける。蒼波も慌てて自分のボストンバッグを下ろした。燿の様子が少し気になったけれど、今はもういつも通りだ。気のせいだったのかもしれないと思い直した蒼波は、燿に続いて目的の駅で電車を降りた。潮風独特のにおいが鼻をくすぐる。
「荷物邪魔だな。チェックインには早すぎるし」
「コインロッカーに預ける?」
「そうするか」
二人は駅に設置されているコインロッカーに荷物を入れ、財布やスマートフォンなどの最小限のものだけを持って海へと向かった。