ほとんど眠ることはできなかったが、足の調子が戻ったこともあり燿はランニングに行くことにした。あのあと家族にとうとう蒼波とケンカをしたのだと誤解されたので、心配をかけないようにするためだ。ジャージを履き、上はTシャツだけにしていつもと変わらずバンドでスマートフォンを腕に固定し、ポーチになっている部分に小銭を放り込み家を出る。
寝不足の状態では長距離を苦手としている燿は必ず休憩が必要になると考えて、公園のコースを選択した。ベンチで休まなければ恐らく今朝はもたないだろう。
朝日が昇り切らない住宅街をスローペースで走る。頭の中は昨日のことでいっぱいだった。そして今朝どのようにして蒼波に電話をすればよいのか迷ってもいる。今回ばかりは燿が悪いので、まず謝らなくてはならない。しかし、果たして蒼波が電話に出てくれるかどうか。
ペットボトルを片手に公園のベンチに座って、スマートフォンを取り出す。一瞬のためらいののち、燿の指先が蒼波の番号をタップした。コール音はやがて留守番電話になってしまう。三回かけても留守電になったため、燿は仕方なく蒼波への電話をあきらめた。
「当然っちゃ、当然だよな」
燿は緩慢な動きで立ち上がると、家までの道を走り始める。この分だと蒼波は一緒に学校に行くこともしないだろう。学校でも燿のそばに寄らないようにするかもしれない。『気持ち悪い』などと言われた相手にしつこく食い下がれるほど蒼波が強くないことを、誰より知っているのは燿自身だ。
ともかく謝って、あれは自分に向けた言葉だと説明しなければならない。
どうすればよいのかを考えながら、燿が家の前まで戻ってきたときだった。蒼波の家の門の付近に違和感を覚える。いつもゴミを出しているところに半透明のゴミ袋が積んであった。三十リットルか四十五リットルはある大きな袋がみっつだ。
「今日は不燃物の日だっけか?」
つぶやいた燿は次の瞬間、ゴミ袋を破く勢いで飛びつき中身を凝視していた。いくつもの瓶と、中に入っていただろう小石や木の実、葉っぱやリボンといった小物が詰め込まれていたからだ。どれも蒼波の宝物だった。
「なんで……」
燿は一度合鍵を取りに自宅へ戻り、隣へと乗り込んだ。どういうことなのか直接蒼波に尋ねようと思っていた。だが、肝心の蒼波は登校してしまったのかどこにも姿がない。
ゴミ収集車に蒼波の宝物を持って行かせるわけにはいかないため、燿は大きな袋をみっつとも自室へと運び入れた。家族はキッチンに集まっていたようで、見つからなかったのがさいわいだ。
どうしてこんなことになっているのだろうか。ゴミ袋を前にして燿はうなった。とにかく早急に蒼波と話をしなければならない。蒼波が望んでこれらを手放すとは考えにくいので、蒼波の中で起きていることについて知りたかった。昨日のキスが関係しているのは明白だ。
燿は朝食もそこそこに家を飛び出し、学校へと向かった。
「蒼波、蒼波!」
登校してきた生徒でにぎわっている教室に駆け込んだ燿は、叫びながら周囲を見回す。蒼波は机に突っ伏していた。
「とりあえずこれ、弁当」
母親から預かってきた弁当の包みを突っ伏したままの茶色い頭の上にのせてみるが、当然のように反応はない。弁当を蒼波のそばに置いた燿はいくぶんトーンダウンさせた声で蒼波に語りかけた。
「話がある。昼休み、逃げんなよ」
蒼波の肩がわずかに跳ねたのを、燿は見逃さない。やはり蒼波は昨日の燿の発言が自分に向けられたものだと勘違いしている。燿はひとつ息を吐くと自分の席へと移動した。
当たり前だが、授業はまったく頭に入ってこない。どうやって蒼波に説明したらよいのかばかりを考えて、時間は過ぎていった。シャープペンシルをくるくると回しながら燿は思案する。まさかキスが気持ちよかったのを認めたくありませんでしたと言うわけにはいかないし、嬉しかったのがいやでしたとも言うわけにはいかない。それは燿自身がまだ認めていないのだから。
だが、蒼波に対して言ったのではないことは、はっきり説明しなくてはならない。そうでなければあまりにもひどい。
そしてなぜ宝物を捨ててしまったのかを尋ねることも忘れないようにしなくてはいけなかった。
チャイムの音に驚いて顔を上げる。事務作業のように授業をこなしていたせいか、時間が経つのはあっという間で、時計を見ると昼になっていた。弁当を持って蒼波の席へと向かう。
「今日は別のとこで食おうぜ」
「……」
蒼波はまるで怒られることが解っている小さな子供のようになっていた。
そんな顔をするくらいなら、どうしてキスなどしたのかと、燿は少しのいら立ちを覚える。自分にダメージがなかったのかと言われたら、蒼波に劣らずといったところなのだ。それでも漏らしてしまった言葉が言葉なので、先に蒼波をなんとかしようと己を奮い立たせているというのに。
「ほら、行くぞ」
ややして蒼波が弁当の包みを取り出し、ゆっくりと席を立った。燿の後ろをついてくる足取りは、まさにとぼとぼといった感じだ。
燿は屋上に続く階段の踊り場まで蒼波を連れていき、どかりと腰を下ろした。隣に座るように指で示す。蒼波は座るのをためらっていたが「メシ食い損ねるだろ」という燿の言葉に、ようやく従うことにしたようだ。
本当は今すぐにでも質問と説明をと燿の心は逸っていたが、まずは蒼波に食べさせるのが先決だと気持ちを抑えた。ところが蒼波は弁当を広げたものの、今日に限ってとても食べるのが遅い。待っているのは無理だと判断する。
「あのな、蒼波」
呼びかけると蒼波は箸を置いてしまった。燿も食べる手を止めていたので一度箸を置くことにする。
「昨日のあれ。『気持ち悪い』ってやつ。お前のことじゃねぇってのだけは言っとく」
結局、燿は説明できないことは説明しないという道を選んだ。ただあの言葉は蒼波に対するものではないということだけをはっきり伝えることにしたのだ。自分の気持ちがぐちゃぐちゃになっている以上、今はこれよりよい考えがなかった。
「……そうなの?」
とても、とても小さな声で、蒼波がそう問い返してくる。
「そうだ。だから気にしないでくれ」
二人の間に重い沈黙が流れた。蒼波がうんともすんとも言わないので、話が続いていかない。燿は参ったなと思いながらも宝物の話をどう切り出そうかと考えていた。
「でも、俺」
低い声が呟くように言うのが燿の耳に届く。蒼波を見ると悲哀に満ちた表情で弁当箱へと視線を落としたままだった。
「俺は、燿ちゃんにひどいことしたから」
蒼波は一体なにを言っているのだろうか。
強姦というのなら確かにこの上ない非道だが、キスをされただけだ。しかも自分は男で女子のようにそれを大切に取っておこうなどとは思っていない。びっくりしたのは事実だし、まだ自分でも諸々のことを処理しきれてはいないが、キスしてきた相手にこんな風に思い詰められるのはなにか違う気がした。
「ひどいこと?」
燿は徐々にイライラしてきている自分に内心驚く。蒼波の言っていることはめちゃくちゃだと感じていた。説明しようと思って蒼波をこの場に誘ったけれど、今は蒼波の方にこそ説明してほしい気持ちが大きい。
「無理やりキスした」
「それは」
「俺、燿ちゃんが思ってるほどきれいじゃない」
言いかけた燿の言葉をさえぎって蒼波は言い募った。自暴自棄にも思える物言いに燿は戸惑いつつも抱いていた疑問を投げかける。
「落ち着け、蒼波。それと宝物捨てたのとなんの関係があるんだよ」
その燿のひと言に、蒼波ががばっと顔を上げた。ばれていないと思っていたのだろう。
「なあ、どうして宝物捨てちまったんだ?」
イライラと戸惑いの狭間で、燿は蒼波がおびえないようになるべく優しく訊いてみた。するとみるみるうちに蒼波の紅茶色の瞳に涙の膜が張っていく。
「俺は燿ちゃんにひどいことして、きれいなんかじゃないから」
「蒼波?」
「もうあんなの、持ってちゃ、ダメだと、思って」
ぐすっと鼻を鳴らしながら蒼波が言葉を続けていくのを、燿は唖然として聞いていた。理解しようとしても頭の回転が追いつかない。
蒼波は弁当箱を片づけることもせず、燿をその場に残して階段を駆け下りていった。
きれいでかわいいものが大好きな蒼波に、それらを捨てさせてしまったのは自分だ。昨日の告白よりもキスよりも、今聞かされた話の方が燿にとっては何倍も衝撃が大きかった。この事実は燿を打ちのめすには充分だ。
しばらく放心していた燿だったが、午後の授業開始前の予鈴が鳴るのを聞いて、のろのろと弁当を片づけだした。蒼波の分も包みに戻し、二つの弁当箱を持って教室へと戻る。蒼波はまた机にしがみつくようにして伏せていたけれど、燿はもう声をかけられなかった。