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Ⅱ-3

 燿の捻挫はそれほど深刻なものではなかったのだが、朝のランニングや部活は十日ほど休んで様子を見ることになった。翌日からは少し足を引きずるくらいで歩くことができたのもさいわいだ。もっとも、ランニングのために普段起きている時間に目が覚めて、暇を持て余してしまうことは苦痛だったけれど。

 そしてもうひとつ、燿の気持ちを重たくさせてしまうのが蒼波だった。毎朝の習慣になっている電話をかけながら、燿は息を吐き出す。

『燿ちゃん、おはよう』

「おはよ」

『支度したら行くから待っててね』

 相変わらず一人では起きられないクセに燿の世話を焼きたがるのだ。一緒に登下校するために手芸部や委員会を休んでいることもあるようだった。

 だからといって蒼波が例の宝物探しまでをやめることはない。昨日も帰り道には何度も立ち止まって、キーホルダーから外れたらしい鈴や小石などを大切そうにポケットへと入れていた。

 ここぞとばかりに世話を焼かれて、燿は困惑しつつも「蒼波はいつもこんな気持ちなのか?」と考える。燿は煌の世話をすることももちろんあるけれど、それよりも蒼波を起こしたり学校へ連れていったり、課題を一緒にしたりする時間の方が圧倒的に多い。

 つまり、煌よりも蒼波の面倒を見ている時間の方が多いのだ。それは蒼波が同い年の友人であり、幼馴染みであることが大きく関係している。話も合うし、なによりそばにいて疲れない。

 そのはずだったのに、今は蒼波が自分の近くにいることに戸惑ってしまう。

「もう少し離れて歩けよ」

「でも転ぶかもしれないし」

 燿が怪我をしてからというもの、学校に向かう間、蒼波は燿の鞄を持って寄り添うように歩いていた。背の高い蒼波は歩くのも早いのだが、足をかばっている燿に当然のように歩みを合わせてくれている。怪我がなかったとしても蒼波はいつも燿の歩く速度に合わせているのだと思って、燿はいら立ちに似た気持ちを覚えた。

 いっそ蒼波がはっきりしてくれたら、自分もこんな気持ちを抱えずに済んだのにとも考える。しかし、もしも言葉にされてしまったとしたら、燿はそれにどう返答したらよいか迷うことも解っていたので切り出せずにいる。そこへ持ってきて捻挫をしてしまったせいで思い切り走ることができず、気持ちを発散する方法がないのが現状だ。

 ようやく教室に着いたところで、前に体育の授業のためにジャージを借りに来た陸上部の友人が、また戸口から燿を呼んだ。

「朝からなんだよ」

「現国の教科書持ってないか?」

「今度は教科書か」

 鞄から教科書を取り出そうとした燿の手が、大きな手につかまれた。蒼波は燿の手を放さないまま彼に向かって言う。

「俺のでもいい? 燿ちゃん、そこまで行くの大変だし」

「あ、悪い。貸してもらえると助かる」

 燿は『誰にもなにも貸したりしないで』という蒼波の言葉を思い出していた。やはり嫉妬ではないかと、戸口のところで教科書を渡している蒼波の広い背中を見つめる。だが、そうだとしても、燿はどうすればよいのか解らなかった。

 その日、蒼波を加えた家族と一緒に夕食を食べたあと、例にもれずさっさと二階の部屋に引っ込もうとしていた燿は珍しく煌につかまった。宿題を教えてほしいだとか蒼波に謝れだとかではなく、単純に遊びたかったらしい。

「蒼波に遊んでもらえ」

「今日はお兄ちゃんがいいの」

 テレビゲームを用意している煌に言ってみるが、本当に珍しくかわいらしい返事が返ってきたので、燿もまあいいかと付き合うことにした。しかし、ゲームで手を抜くことができない燿は小学生の妹相手にもついつい本気になってしまう。連勝に連勝を重ねてとうとう煌を泣かせてしまった。

「燿! ちょっとは煌が楽しめるようにしてあげなさい」

「燿ちゃん意地悪だ」

 テーブルでコーヒーを飲んでいた母親と蒼波に責められ、流石に反省した燿は煌の頭をぽんぽんとなでて「ごめんな」と素直に謝る。泣きじゃくる煌は甘えるように燿に抱きついてきた。

「今度は俺とやる?」

 蒼波がテーブルから燿たちのいるテレビの前までやってくる。大好きなはずの蒼波からの誘いにも、機嫌を損ねた煌は首を横に振るばかりだ。燿にべったりとくっついて離れようとしなかった。

「じゃあ燿ちゃん、俺とやろうよ」

「……でも煌がなあ。今、手が離せねぇし」

 正直なところ、蒼波がそばに来たので、燿は部屋に戻りたくなっている。煌を抱えていることを言い訳にしてゲームの誘いを断った。

「煌ちゃん珍しい。やっぱりお兄ちゃんが大好きなんだね」

 低い声がそんな言葉をつむぐ。燿はその声音に本能的な恐怖を感じて、煌の方に話しかけた。

「そろそろ寝る時間だろ? 部屋まで連れてってやるから」

「うん」

「燿ちゃん、湿布換えるのやろうか?」

「いい。自分でやる」

 燿は蒼波をその場に残し、煌を連れて二階へと向かう。煌を部屋へ送ったあとはリビングには戻らず、自分の部屋のベッドにダイブした。

「今のもだ」

 口をついて出たのは、蒼波の態度についてだ。蒼波は煌にまで嫉妬していた。

 どうすればよいのか。どこへ逃げればよいのか。どうしたら決定的な言葉を言われずに済むのか、燿は考え続けた。

 それから数日経ったある日の放課後、悲痛な面持ちをした蒼波が燿の元へとやってきた。

「今日、どうしても園芸委員会に出なくちゃいけなくて……」

「先に帰ってるわ」

「一人で大丈夫?」

「週明けからは練習にも出られるんだし平気」

 蒼波が教室から出ていくのを見てから、燿も昇降口へと向かう。こうして一人で帰るのは久しぶりだと感じた。靴を履き替え、駅までの道を緩めの歩調で歩いていく。もうすっかり足の腫れも引き、歩く分にも問題はなかった。

 一人で下校するときには、燿は駅前のゲームセンターに立ち寄ることが多い。陸上部の休養日などは必ずといってよいほどゲームをしていた。そして最後にはクレーンゲームを見て回って、蒼波が好みそうなキャラクターの小さなマスコットが獲れないかとチェックするのだ。マスコットを持ち帰ると蒼波はとても喜んで、花が咲いたように笑う。

 しかし、この日の燿はゲームセンターに寄ることをしなかった。もしなにかが獲れたとしても、蒼波に渡すのをきっとためらってしまうと解っていたからだ。ゲームセンターの自動ドアが開くたびに派手な音楽が流れてくる。それを聞きながらそそくさと駅に向かった。

「ただいま」

 燿の声に応える者はいない。テーブルに母親からの『煌と買い物にいってきます』というメモがあった。燿は小さく息を吐き出す。自分でも蒼波に対する態度がずっとおかしいと思っていた。家族にも心配をかけていることも知っている。

 もしも蒼波が自分に同じような態度を取っていたとしたら、燿はとっくに激怒して蒼波に詰め寄っているに違いない。たぶん自分は蒼波のやさしさに甘えているのだろう。

 着替えを済ませた燿はリビングのソファに転がりテレビをつけた。

 そういえば、仮に蒼波が燿をそのような意味で好きだとして、どこが好ましく思えたのだろう。今まで考えていなかった疑問がふと浮かんできた。蒼波はきれいでかわいらしいものばかりを集めている。燿もそれを知っているからゲームセンターでも猫やくま、うさぎなどのマスコットを選んで獲るようにしていた。部屋に並べられている瓶の中には確かにきれいな色をしたものたちが収まっている。蒼波がかわいいと言って愛でるものは、子供や女性も喜びそうなフォルムをしていたし、きれいだと言うものは誰が見ても目を引く色合いをしていた。

 それらに燿との共通点はない。

 なにせ燿は普通の男子高校生で、女子のようにふわふわとした雰囲気も持っていなければ、やわらかい体をしているわけでもなかった。

 蒼波の好きなものと燿はあまりにかけ離れているため、自分を好きだというのは現実味がないと思えてくる。

 テレビの画面をぼんやりと眺めながら、燿はそんなことを考えていた。気づかないうちに辺りは夕闇に包まれている。薄暗くなりかけていた室内に慌てて電気をつけた。

 そこへドアの開く音がする。燿は母親と煌が帰ってきたのだと思い、気にすることなく再びテレビの前のソファに寝転がった。

「ただいま、燿ちゃん」

「蒼波」

 燿が飛び起きたのは言うまでもない。なんとか場を取り繕って二階へ避難しなければと慌てる燿に、蒼波は静かな口調で話し出した。

「今日はゲーセン、行かなかったの?」

「あ、ああ。気分じゃなくて」

「そう」

 蒼波は制服のまま燿の家に来たことからも、燿がクレーンゲームで何かを獲ってきたのでは? と思っていたようだ。お土産のマスコットがないことにあからさまにがっかりしていた。

「こ、今度また、獲ってやるから」

「燿ちゃん」

 名を呼ばれて燿の背筋が伸びる。少し悲しそうにはしていたものの、蒼波は落ち着いた様子で燿を見つめていた。

「なに?」

「ちょっと話があるんだけど」

「俺にはないな!」

「燿ちゃんずっと変だよ。俺のせい?」

 ずばりと切り込まれて言葉を失った燿に、蒼波は畳みかける。

「俺が『バカ』って言ったから? 俺が『誰にもなにも貸さないで』って言ったから?」

「ちょっと待て。ここじゃアレだから、部屋に来い」

 リビングで話していたら、いつ母親たちが帰宅するか解らない。聞かれてしまうと面倒になると考えて、燿は泣き出しそうな蒼波を連れて自分の部屋へ向かった。

 部屋に入って蒼波をローテーブルの前に座らせ、自分も向かいに腰を下ろす。こういうときの蒼波には、もう思っていることを全部吐き出させるのが一番だ。燿はこれまでの経験を活かすことにした。

「ええと、俺が変だって話だよな?」

 ところが話の先をうながしても、蒼波は一向に口を開こうとしない。先ほどまでは燿を質問責めにしていたのに、今は押し黙って両手を膝の上で握っていた。

「……悪い。俺が妙な態度取ったから」

「違う! だからそれは俺が」

 そう言いかけた蒼波は途中で口をつぐんでしまう。燿が謝っても気が済まないことがあるらしかった。

「なんだよ。はっきり言えよ」

「俺が、先におかしなことばっかり言ったからでしょ?」

「解ってんなら、なんで」

 燿の問いかけに蒼波がローテーブルを横に押しのける。体がこわばって動けなくなった燿の前まで膝立ちでやってきた蒼波は、燿の両手首を乱暴につかんだ。

「だって、俺は!」

「蒼波、放せよ」

 この先を言わせてはいけないと燿の頭の中で警鐘が鳴っていた。手を振りほどこうとしてみるが、思いのほか強い力で握られていたためかなわない。

「蒼波!」

「俺は燿ちゃんが好きだから。だから、俺だけの燿ちゃんでいてほしくて」

 とうとうそのときが訪れてしまった。決定的な言葉を聞いて、燿は耳を塞ぎたくなる。依然としてつかまれている手首が燃えるように熱く感じられるのは、蒼波の体温のせいなのか自分の体温のせいなのか。

 燿の脳裏には、幼いころの蒼波の笑顔や集めている宝物を閉じ込めた瓶が浮かんでくる。それらと燿はとても不釣り合いに思え、一体蒼波は自分のなにを見てどこを好きになったのかと、燿は完全に混乱した。耳鳴りはしてくるし、できているはずの呼吸が苦しい。浅く速い呼吸を自分でコントロールすることができず、燿は陸に打ち上げられた魚のように、はくはくと呼吸を繰り返すばかりだった。

 だから蒼波の顔が近づいてきたときも、酸素を取り込みすぎてぼんやりとする頭で「なんだ?」としか思えない。柔らかく温かいものが唇に押し当てられても、燿にはなにが起きているのか解らなかった。

「ん、ん!」

 初めて体験する感覚に、燿の全身へ力がこもった。自分が今蒼波にキスされているのだと気づいたのは、散々好き放題にさせてしまってからだ。

 頭を振って逃れようとする燿に、蒼波は角度を変えながら何度もくちづけた。両手は蒼波によって拘束されている状態なので、突き放すことができない。ならば足でと蹴ろうと試みるが、蒼波が燿の腕ごと足を押さえつけていてうまくいかなかった。

「あう、ん」

 蒼波と呼んぼうとしても、自分のものとは思えない鼻に抜けた声しか出せないことに、燿は情けなさを覚える。目頭が熱くなり、じわりと涙がにじんできた。

「んんっ」

 それでも燿は心の中で蒼波からの告白を喜び、キスされているこの状況を心地よいと感じており、そんな自分に愕然とする。

 答えを見つけられずにあんなに悩んでいたのが嘘みたいだった。自分は蒼波を性的な意味合いでも受け入れようとしている。そうするのが当たり前というように体の方が反応してしまっていた。

 いやだと強く思って自分に起きているすべてを否定する。気持ちがよいわけはないし、受け入れたりはしない。蒼波にこんなことをさせてはいけない。あんなにきれいでかわいいものを愛している蒼波が、自分にキスなどするはずがない。しかし、思っても思っても燿は与えられるくちづけにおぼれていくばかりだった。

 長いキスがちゅっと軽いリップ音を立てて終わる。燿は涙のたまった目で茫然と蒼波を見つめていた。

「燿ちゃん」

 蒼波の唇が自分の名をつむいでも、身動きができない。自分はたった今なにを思っただろうか。終わらなければいいと思わなかっただろうか。

「……気持ち悪い」

 こんな自分は自分ではないと、燿は自分を罵った。できることなら自分を殴り倒したい気分だ。しかし両手はいまだ蒼波に握られており、ぼろぼろとこぼれる涙を拭うこともできなかった。

 燿の手を押さえつけていた大きな手が急に離れたかと思うと、蒼波が立ち上がってばたばたと部屋を出ていってしまう。

「蒼波?」

 どうしたんだ? と尋ねようとして、燿は己の失言にようやく気づいた。今のタイミングでの燿の言葉は、きっと蒼波の告白への返事と受け取られてしまったに違いない。そうだとしたらひどい言葉を投げつけたことになる。

 燿にとっては自分に向けて放った言葉だったけれど、それを受けとめたのが蒼波となればまったく別の問題を生んでしまう。

 慌てて隣家まで走って行き、ドアをたたいてはチャイムを何度も押す。スマートフォンでも蒼波に連絡を取ろうと何回もかけてみるが、蒼波からの返事はないままだった。『もう一度話がしたい』とメッセージを送ってみても、既読にすらならない。

 その日、蒼波が燿の家に夕食を摂りに来ることはなかった。

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