こんがらがってしまった生活はもう五日になろうとしていた。
蒼波は「バカ」と声を荒らげた翌日こそ様子がおかしかったけれど、その次の日からはすっかり元通りだ。朝は寝坊をして、学校への行き帰りでは道草を食っていた。それに対して燿だけが取り残された形で、素っ気なく見える態度を取っている状態にある。
そんな中で小さな事件が起きた。
体育の授業中に、バスケットをしていたとき。燿は高めにパスされたボールを取ろうと無理な姿勢からジャンプしたのだが、同じくボールを取ろうとした相手のチームの選手とぶつかって着地に失敗してしまった。左足に激痛が走り、そのあまりの痛みに倒れたまま動くことができない。
「おい、大丈夫か!」
「室橋!」
すぐに教師とクラスメイトたちが駆け寄ってきた。
「大丈夫、じゃねーかも」
痛みをこらえながら冗談めかして答えてみるが、誰もが心配そうに燿を覗き込んでいる。
「保健係、室橋を保健室に」
「俺が連れていきます。俺、でかいし丁度いいと思うから」
教師の言葉をさえぎったのはほかでもない蒼波だ。燿は痛みをこらえるのに必死だったが、自分の背中をゆっくりとさすって荒くなっている呼吸を落ち着かせてくれている大きな手が蒼波のものであることには気がついていた。
「燿ちゃん、一度はしっこに行こう」
そう言って蒼波はひょいと燿を抱えてコートから出ると、体育館の隅へと移動する。バスケットの試合は再開され、燿の耳にボールのバウンドする音やシューズのスキール音が届いた。
「動けそう?」
蒼波の問いに燿はこくりとうなずく。ここ数日、まともに蒼波と話をしていないせいで、言葉がすぐには出てこなかった。
「危ないから俺につかまって」
燿の左手を取って自分の肩へ回させ、蒼波はゆっくりと立ち上がる。相変わらずひどい痛みだったが、お陰で燿はなんとか立つことができた。蒼波が燿に歩調を合わせてくれるので助かる。
保健室に着くと蒼波は燿を椅子に座らせた。保健医の姿が見当たらないため、探してくると言って職員室へと駆けていく。その蒼波の背中を見送った燿は痛みに顔をしかめながらシューズと靴下を脱いだ。
痛みのわりには腫れていないが、確実にひねってしまった。部活をどのくらい休まなければならないのかと憂うつな気持ちで足を観察していると、蒼波が戻ってきた。
「保健の先生、見つからなかった」
「え」
じゃあこれはどうすればよいのだと燿は自分の足を見つめる。そばまでやってきた蒼波が燿の前でしゃがみ、素足にそっと触れた。
「いってぇ!」
「ご、ごめん。足首、曲げたりはできる?」
「それはなんとかできるけど」
蒼波はうーんとうなってから、薬などが入っている棚をあさり始める。そして湿布と包帯を手に再び燿に向かい合った。
「まずは冷やそう? 応急処置的なやつだけど」
そう言って蒼波は患部に湿布をそっと貼ってくれる。熱を持っていたこともあって気持ちがよかった。本当は固定した方がよいのだと怪我をすることがある陸上をやっている燿には解っていたけれど、丁寧に包帯を巻いていく蒼波の手を見ていると言い出す気にはなれない。
「燿ちゃん、包帯きつくない?」
「大丈夫」
「もう帰る? ゲーセン寄ったりしちゃダメだよ?」
早退するかと訊かれた燿は噴き出してしまった。それなりの痛みはあるが病院に行くほどの捻挫ではない。それなのに早退を勧めるほど蒼波は燿を心配している。
「なんで笑ってるの?」
しゃがんだままの蒼波が伸び上がって燿の顔を覗き込んできた。急に顔が近くなったことに驚いた燿は身を引こうとする。椅子の上でそんなことをすれば当然バランスは崩れた。
「うわっ」
「燿ちゃん!」
がしゃんと大きな音を立てて燿は椅子ごとひっくり返ったのだが、予想していたよりずっと衝撃も痛みも少ない。つむっていた目を恐る恐る開いてみると、蒼波に抱き締められる形で床に転がっていた。
「いたた……大丈夫? 燿ちゃん」
大丈夫だと答えたいのに心臓がばくばくと音を立てていて邪魔をする。こんなに蒼波にくっついたのはいつぶりだろうか。それより蒼波は大丈夫なのか。とにかく返事をしなければと燿は軽いパニックに陥った。
「燿ちゃん?」
「あ、う、うん」
「よかった。足もひどくなってない?」
こくこくと頭を縦に振るばかりの燿を抱き起こしながら、蒼波はほっとしたように笑みを浮かべる。燿から離れると倒れた椅子も戻して燿を座らせてくれた。燿は蒼波の茶色い髪の毛から覗く耳が真っ赤になっていることに気づき、慌てて窓の外へと視線をやる。今、蒼波の顔を見てはいけない気がした。
「燿ちゃんは少し休んでいった方がいいよ」
「……おう」
「先生には俺が言っとく」
蒼波は辺りを片づけてから体育館へと戻っていった。
いつもならこういうことは燿がしている。蒼波が怪我をしたときなどは燿がすぐに保健室に連れていっていた。一人残された保健室でぼんやりとそんなことを思う。
顔を寄せられたときとっさに腰が引けたのは、見慣れている蒼波の顔が知らない男のものに見えたからだ。優しくてほんわかしているはずの蒼波が、男らしさをにじませた燿の知らない表情をしていた。
すぐに顔を赤らめて、いつもの蒼波に戻っていたけれど、燿にはその一瞬が恐ろしかったのだ。
「あいつ、本当になんなんだよ」
その問いに答える者はいない。青空に浮かんだ雲は緩やかに流れていた。